田澤ルールはなぜできたのか?できた経緯や撤廃されるまで 適用された選手は?

林龍也 Tatsuya Hayashi

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プロ野球のトッププレイヤーたちが次々とメジャーに挑戦するようになって久しいが、日本のプロ野球(NPB)を経ずにアマチュアから直接渡米し、メジャーリーグベースボール(MLB)球団との契約を目指す選手もいる。

その代表的な選手として名前が挙げられるのが、田澤純一だ。田澤は社会人時代、ドラフト1位候補として名前が挙がるほどの有望株だったが、ドラフト指名を拒否して渡米した。これが所謂「田澤ルール」ができるきっかけとなった。

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田澤ルールとは?

田澤ルールとは、「日本のプロ野球のドラフトを拒否して海外のプロ野球と契約した選手に対し、日本復帰後の一定期間(高卒選手は2年間、大卒・社会人出身選手は3年間)はNPB球団は契約しない」という12球団による申し合わせ事項のこと。

これにより、選手がドラフトを拒否してアマチュアから直接MLB球団などと契約した場合、日本球界復帰後にNPB球団と契約するまでに大きなハードルが課されることとなった。

田澤純一とはどんな選手なのか

田澤は1986年生まれ、神奈川県出身の投手。横浜商科大学高では1年時からベンチ入りし、2年夏の甲子園に出場(登板はなし)、3年夏はエースとして神奈川大会ベスト4に進出した。

卒業後は新日本石油(現・ENEOS)に入社し、2年目には社会人野球日本選手権大会でベスト4進出に貢献する。ドラフト解禁年となる3年目は思うような成績を残せず残留したが、4年目の2008年はチームを都市対抗野球大会優勝に導き、自身も大会MVPに当たる橋戸賞を受賞した。

同年ドラフトでは上位候補に挙がっていたが、指名を拒否してMLBのボストン・レッドソックスと契約。マイアミ・マーリンズ、ロサンゼルス・エンゼルスなどでプレーした。

トミー・ジョン手術による離脱などもあったが、11年間で通算388試合に登板(うち先発4)、395.1回を投げて21勝26敗、374奪三振、防御率4.12の成績を残した。2013年には上原浩治とともにブルペンを支え、レッドソックスのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

2020年3月に当時マイナー契約を結んでいたシンシナティ・レッズを自由契約となると、7月には帰国してルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団。その後は台湾、メキシコでプレーし、2022年9月に古巣のENEOSに復帰した。

なぜ田澤ルールができたのか

社会人4年目の2008年ドラフトでは上位候補として名前が挙がっていた田澤だったが、ドラフト前に12球団へ指名断りの連絡をし、NPBを経ずにMLBのボストン・レッドソックスとメジャー契約を結んだ。

この結果、NPBは国内の有望なアマチュア選手の海外流出を懸念し、ドラフトを拒否して海外球団と契約を結んだ選手に対して帰国後も一定期間NPB球団と契約できないとする、通称「田澤ルール」を設定した。

田澤ルール撤廃について

それから12年が経った2020年、田澤の日本復帰などもきっかけとなり、日本プロ野球選手会がNPBに申し合わせ事項の撤廃を要望。また、この申し合わせ事項が独占禁止法違反の恐れがあったことなどから、NPBは9月にこのルールを撤廃。今後も同様の申し合わせは行わないことを公表した。

これにより2020年のドラフト対象選手となった田澤だったが、ドラフト会議で12球団から指名はされず、翌年から台湾へと渡り現役を続けた。

指名されなかった理由は様々な理由が考えられるが、当時34歳という年齢だったことや、選手としての全盛期も過ぎていたことなどが挙げられる。

田澤ルールが適用されたことはあったのか

田澤ルールができてから撤廃されるまでの間で、日本のアマチュアからNPBを経ずに海外球団と契約した選手もいたが、その多くが「ドラフト指名を拒否しての契約」ではなかった。

2009年には菊池雄星が、2012年には大谷翔平が、いずれも花巻東高から直接のMLB挑戦を目指すことを表明した。しかし最終的には両選手とも翻意し、菊池は埼玉西武ライオンズと、大谷は北海道日本ハムファイターズと契約したことにより適用されることはなかった。

しかし2017年、社会人野球のパナソニックの吉川峻平が、社会人登録を抹消しないままアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約。これが規約違反となり、日本野球連盟から登録資格剥奪の上、再登録を認めない処分を受けた。

ドラフト上位候補だった吉川には田澤ルールが適用される見込みとなっていたが、撤廃されたことによりNPB球団がドラフト指名をすれば入団は可能となっている。

NPBを経ずにアメリカ球界に挑戦した主な選手

以下で紹介する選手はいずれも田澤ルール以前の選手で適用の対象ではない。さらにアマチュア時代にドラフト候補としても名前が挙がっていた選手ではないが、直接渡米し、MLBやNPBで活躍を見せた選手たちだ。

G.G.佐藤(佐藤隆彦)

法政大時代はレギュラー定着はならず、卒業後に渡米しフィラデルフィア・フィリーズ傘下でプレー。帰国後に埼玉西武ライオンズの入団テストを受けて合格し、2003年ドラフト7巡目で指名を受けた。

強打の外野手として活躍し、通算88本塁打をマーク。2008年の北京五輪にも出場した。

マック鈴木(鈴木誠)

滝川第二高を中退後に渡米。マイナーリーグの練習生からスタートし、1996年にシアトル・マリナーズでメジャーデビュー。NPBを経由しない初の日本人メジャーリーガーとなった。4球団で6年間プレーし、通算16勝をマーク。

2002年ドラフト2巡目でオリックス・バファローズに入団し、2年間で53試合に登板、5勝を挙げた。その後は海外球団や日本の独立リーグなどでプレーした。

山口鉄也

横浜商業高卒業後に渡米し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約。4年間プレーした後に帰国し、読売ジャイアンツの入団テストを受けて合格。2005年に始まった育成選手ドラフト1巡目で入団した。

2年目の2007年に支配下選手登録されると、翌年には67試合で11勝を挙げて新人王を受賞。以降もリリーフ左腕としてチームのブルペンを支え、2018年の引退までに通算642試合に登板、52勝27敗、29セーブ、273ホールド、防御率2.34の成績を残し、最優秀中継ぎ投手に3度輝いた。

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林龍也 Tatsuya Hayashi

林龍也 Tatsuya Hayashi Photo

神奈川県出身。中学時代は野球部で選手、高校、大学、社会人クラブチームではマネージャーとして野球に携わる。市役所勤務を経て高校野球専門メディアで企画・編集・執筆・翻訳などを担当。フリーライターとして独立し、『スポーティングニュース』『オリンピックチャンネル』『SPAIA』『高校野球ドットコム』などの媒体にコラムやレポート、SEO記事などを寄稿。オフには草野球を楽しんでいる。