ドラマ満載、巨人の監督交代劇

Sporting News Japan Staff

ドラマ満載、巨人の監督交代劇 image

巨人監督が交代した。理由は「成績不振」。明るく振舞って原辰徳-阿部慎之助のバトンタッチ、という演出に見えた。過去の巨人監督交代はドラマが詰まっていたケースが多かった。それも球史に残る…。

[AD] プロ野球を観るならDAZNで。スマホやTVでスポーツをいつでも楽しもう

社会事件となった長嶋の“解任劇”

監督交代で最も有名なのは長嶋茂雄のケースである。1980年10月21日、長嶋政権の6年間が終わった。Aクラスの3位に終わったというのに、だ。「男のけじめ」-。長嶋は退く気持ちを記者会見でそう言い表した。

ほとんどのメディアは“長嶋解任”と報じた。実は6年契約が終了したタイミングで、巨人はだから「契約満了につき退団」と説明している。原のように契約途中の解任ではなかったのだが、天下のヒーロー長嶋がユニホームを脱ぐことを、メディアも世間もその通り受け取るわけがない。全国ニュースの反動はすさまじく、ファンの球団への抗議は激しかった。

長嶋が初めて監督に就任したのは1974年のシーズン終了後。V9監督川上哲治と並んで記者会が行われ、順調な引き継ぎの形だった。今回の原-阿部のように。

川上は9連覇した1973年が終わると、長嶋に監督就任を勧めたが、長嶋はバットマンのけじめをつけるため、1年間の条件付きで現役続行の意思を伝えた。それで1975年からさい配をふるうことになったのである。

こういう話がある。川上は現役引退、即監督の長嶋に不安を持っていたのだろう。V9のコーチを入閣させられるよう親心を示したけれども、長嶋はそれを受け入れず自前の首脳陣を作った。「クリーンベースボール」のキャッチフレーズを掲げ、キャンプを米フロリダで張った。球界の話題を独り占めにする華やかなスタートだった。

ところがシーズンはあえなく最下位。球団初の屈辱だった。終盤には「長嶋、辞めろ」の声が飛んだ。そのペナルティはコーチ陣編成の権利を取り上げられたことで、ヘッドコーチをはじめ自分が選んだコーチはみんな外された。

のちに3000安打を記録する張本勲をトレードで獲得し、王貞治とのOHコンビで76-77年とリーグ優勝(ともに日本シリーズ敗退)。その後、優勝から見放され、6年目の1980年まで3年続けて優勝できず、日本一は7年間も実現できなかった。

1980年のシーズン中、週刊誌の座談会で川上らが長嶋さい配を批判をしたのが話題になった。長嶋はこの年、敵地で広島に勝って3位を決めて帰京したが、翌日に退団となった。後任監督に就任したのは座談会のメンバーの一人でV9の投手コーチを務めた藤田元司だった。

壮絶ドラマを演じた魔術師と勝負師

巨人は戦後の1946年にリーグ戦が再開されたころ勝てなかった。2シーズン目の47年の途中、三原脩を監督に呼んだ。三原は高松中-早大とエリートコースを歩み、巨人に契約第1号選手として入団。当時からクレバーな野球人と知られていた。大学時代に株などの投資をしたほどである。巨人は戦前にも弱いときに三原をコーチとして頼み、伝説の「茂林寺の猛練習」で強さを取り戻している。「困ったときの三原」だった。

三原はその期待にこたえ1リーグ最後の1949年に優勝し、王座奪還を果たしたのだが、総監督に棚上げされた。セ・パ2リーグとなった翌1950年の監督に就いたのは水原茂だった。水原はシベリア抑留から前年に帰国し、後楽園球場で「水原、ただいま帰りました」と挨拶したばかりだった。

水原は高松商-慶大と進み、三原と神宮球場で相対している。プロ野球が誕生して間もなく巨人でともにプレーした間柄だった。三原としては無理やりユニホームを脱がされ、ベンチ入りもならない、仕事もない背広の毎日となれば面白くないだろう。

三原は退団すると、西鉄に行く。「九州へ都落ち」と言われた。稲尾和久、中西太、豊田泰光ら投打に選手をそろえ、1956年から3年連続してパ・リーグ優勝したうえ、日本シリーズでも水原率いる巨人に3連勝した。とりわけ1958年は3連敗4連勝という離れ業をやってのけた。巨人への強烈な恩返しだった。

さらに三原は1960年に大洋監督に就任してセ・リーグに乗り込むと、前年最下位の弱小チームを巧みに操って優勝。さい配の妙から三原の生涯の代名詞“魔術師”が生まれた。水原は11年間に3連覇に5連覇と8度のリーグ優勝、うち日本一4度という好成績を挙げ“勝負師”の異名をとった。しかし、またしても三原に敗れたことで監督の座を追われ、東映監督になった。水原が球団代表から監督解任を伝えられたのは都内の料亭で、水原の下でコーチをしていた川上もそこに呼ばれ、水原とは別室で監督就任を引き受けた。

三原vs水原の対戦は、宮本武蔵と佐々木小次郎の果し合いにたとえて「巌流島の対決」と呼ばれ、野球ファンを熱狂させた。巨人を舞台にした壮絶な監督交代劇だった。

球団の歴史を変えたキーワード“17年”

原の今回の監督辞任は、3年連続して優勝を逃し、2年連続Bクラスの不成績による解任なのに、まるで勇退のような辞任劇だった。後任の阿部よりも目立ったほどである。これまでの巨人にはありえなかった交代劇といえた。

同じ不成績をとがめられた最初の長嶋や王は追われるようチームを去った。長嶋は突然だったし、王は残り4試合を残した時点(1988年)での「お疲れさん」だった。王は三原と同じ道をたどり福岡に向かった。ダイエーを初優勝させ、ソフトバンクの黄金時代を築いた。このONを思うと原の言動は驚くばかりである。

原は3度も監督を務めた。2002-2003年、2006-2015年、2019-2023年である。計17シーズンという長さだった。9度のリーグ優勝と日本一3度。文字通り“原時代”を作り上げ、巨人を「原カラー」に染め上げた。阿部は原の推薦監督のようだからそのカラーは簡単には変わらないだろう、と見られている。

17シーズンというのは巨人の歴史を変えるキーワードなのである。長嶋-藤田-王-藤田-長嶋という時代は、1975年から2001年まで3人で監督を回した。V9が終わったあとの17年間である。球界の盟主を保つのに必死だった時期だった。江川卓を獲るのに協約問題を起こしたのもそれえゆえだったのだろう。

もう一方でこの17年は監督育成をしなかった時期ともいえた。従ってV9メンバーは他球団の監督になった。金田正一はロッテで日本一に、ヤクルトと西武を初優勝と日本一に導いた広岡達朗、西武の黄金時代を築いた森昌彦(祇昌)、それに土井正三、高田繁。いずれも巨人監督に値する人材だった。

原の通算17年がこれからどんな状態をもたらすか注目したい。阿部の成否が答えの一つになるかも知れない。巨人の監督交代は辞任と就任が同日に行われる伝統があり、今年もそうだった。

[AD] プロ野球ファームの試合を見るならイージースポーツ。新規会員登録はこちらから

Sporting News Japan Staff

Sporting News Japan Staff Photo

日本を拠点に国内外の様々なスポーツの最新ニュースや役に立つ情報を発信しているスポーティングニュース日本版のスタッフアカウント。本家であるスポーティングニュース米国版の姉妹版のひとつとして2017年8月に創刊された日本版の編集部員が取材・執筆しています。