日本のプロ野球で初めて永久欠番が制定されたのは1947年。黒沢俊夫がシーズン中に死去したことにより、沢村栄治の「14」とともに黒沢の「4」が永久欠番に指定された。以来、プロ野球では18の永久欠番が制定されてきた。
この記事では日本のプロ野球において永久欠番となった選手とその背番号を一覧にまとめる。
プロ野球 球団別永久欠番リスト
球団 | 番号 | 選手 | 守備 | 主な成績 |
---|---|---|---|---|
巨人 | 1 | 王貞治 | 内野 | 2831試合 2786安打 868本塁打 2170打点 打率.301 |
巨人 | 3 | 長嶋茂雄 | 内野 | 2186試合 2471安打 444本塁打 1522打点 打率.305 |
巨人 | 4 | 黒沢俊夫 | 外野 | 484試合 459安打 7本塁打 201打点 打率.259 |
巨人 | 14 | 沢村栄治 | 投手 | 105試合 63勝22敗 554奪三振 防御率1.74 |
巨人 | 16 | 川上哲治 | 内野 | 1979試合 2351安打 181本塁打 1319打点 打率.313 |
巨人 | 34 | 金田正一 | 投手 | 944試合 400勝298敗 4490奪三振 防御率2.34 |
阪神 | 10 | 藤村富美男 | 内野 | 1558試合 1694安打 224本塁打 1126打点 打率.300 |
阪神 | 11 | 村山実 | 投手 | 509試合 222勝147敗 2271奪三振 防御率2.09 |
阪神 | 23 | 吉田義男 | 内野 | 2007試合 1864安打 66本塁打 434打点 打率.267 |
広島 | 3 | 衣笠祥雄 | 内野 | 2677試合 2543安打 504本塁打 1448打点 打率.270 |
広島 | 8 | 山本浩二 | 外野 | 2284試合 2339安打 536本塁打 1475打点 打率.290 |
広島 | 15 | 黒田博樹 | 投手 | 321試合 124勝105敗 1461奪三振 防御率3.55 ※1 |
中日 | 10 | 服部受弘 | 投手 | 112勝65敗 防御率2.81/33本塁打 打点208 打率.239 |
中日 | 15 | 西沢道夫 | 内野 | 60勝65敗 防御率2.23/1717安打 212本塁打 940打点 |
楽天 | 10 | ファン番号 | - | - |
楽天 | 77 | 星野仙一 | 監督 | 2277試合 1181勝1043敗53分 勝率.531 ※2 |
西武 | 24 | 稲尾和久 | 投手 | 756試合 276勝137敗 2574奪三振 防御率1.98 |
日本ハム | 100 | 大社義規 | オーナー | - |
※1:黒田博樹の成績はNPB通算
※2:星野仙一の成績は監督通算
永久欠番選手と寸評
読売ジャイアンツ
王貞治(背番号1)
「一本足打法」と呼ばれる独特の打法から本塁打を量産し、「世界の王」と呼ばれた。1964年に記録した55本塁打は2013年にバレンティン(東京ヤクルトスワローズ)が60本塁打を放つまでプロ野球記録だった。通算868本塁打は現在も世界記録。
長嶋茂雄(背番号3)
「ミスタージャイアンツ」と呼ばれ、王貞治とともに「ON砲」として巨人でV9を経験。引退セレモニーでの「わが巨人軍は永久に不滅です」と言った言葉は、今も語り継がれる名言となった。監督としても5度のリーグ優勝、2度の日本一に導いた。現在は終身名誉監督。
黒沢俊夫(背番号4)
1947年のシーズン中に入院し、腸チフスのため33歳の若さで死去。「俺が死んだらユニフォームを着せて葬ってほしい」が遺言だったという。球団が黒沢の死を悼み、1944年に戦死していた沢村栄治の14番とともに、日本初の永久欠番に制定された。
沢村栄治(背番号14)
日本プロ野球黎明期に活躍した大投手。日米野球ではベーブ・ルースやルー・ゲーリックら名選手を相手に好投を見せ、日本職業野球連盟設立時から巨人のエースとして活躍。初代MVP、3度のノーヒットノーランを達成するも、1944年に戦死。その功績を讃え、「沢村賞」が設された。
川上哲治(背番号16)
戦前、戦後を通じてプロ野球で活躍。史上初の2000安打達成者で、「打撃の神様」とも称された。現役引退後は監督として、王貞治、長嶋茂雄らを率いてV9を達成した。
金田正一(背番号34)
国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)と巨人で活躍し、プロ野球唯一の通算400勝を挙げた左腕。沢村賞を3回受賞したほか、数々のタイトルを獲得。1957年には完全試合も達成した。
阪神タイガース
藤村富美男(背番号10)
阪神創設メンバーの一人であり、不動の4番打者として活躍。MVP1回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回を獲得した。投手としても34勝を挙げた。「1人の選手だけが着用した永久欠番」は藤村の「10」が最初で最後。
村山実(背番号11)
「サドペック投法」で知られ、闘志を全面に押し出すスタイルの投手。戦後唯一の防御率0点台や、3度の沢村賞を受賞し、通算222勝をマークした。
吉田義男(背番号23)
身長167cmと小柄ながら華麗で堅実な守備から「牛若丸」の異名を取った遊撃手。引退後は阪神で3度、8年間に渡って監督を務め、リーグ優勝も経験。第2期目の就任と同時に永久欠番となった。
広島東洋カープ
衣笠祥雄(背番号3)
「鉄人」と呼ばれ、1970年終盤から1987年まで2215試合連続出場を達成。これは当時の世界記録(後にルー・ゲーリックが更新)で、現在もプロ野球記録となっている。打点王、盗塁王やMVPなどに輝いた。
山本浩二(背番号8)
「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、4番打者として活躍。首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回を獲得し、MVPにも2度輝いた。引退後は広島の監督や、2013年WBCでも監督を務めた。
黒田博樹(背番号15)
広島のエースとして数々のタイトルを獲得し、メジャーリーグでも名門ニューヨーク・ヤンキースなどでエース級の活躍を見せた。古巣復帰後には25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。日米通算203勝をマークした。
中日ドラゴンズ
服部受弘(背番号10)
捕手としてプロ入りし、1941年には本塁打王にも輝いたスラッガー。その後は投手としても活躍し、5年連続を含む6度の二桁勝利をマークした。
西沢道夫(背番号15)
初代「ミスタードラゴンズ」として活躍した名選手。投手としてプロ入りし、16歳0ヵ月での初出場は最年少記録。1940年に20勝を挙げたが、兵役から復員したときには右肩を痛めて打者へ転向。首位打者、本塁打王、打点王に輝いた。
東北楽天ゴールデンイーグルス
ファン番号(背番号10)
チーム創設の2004年に、10人目の選手を意味して「10」をファンナンバーとして制定した。
星野仙一(背番号77)
現役時代には中日の投手として通算146勝を挙げた右腕。引退後は中日、阪神、楽天で監督を務め、「闘将」と呼ばれた。中日で2度、阪神で1度リーグ優勝し、2013年には楽天を初のリーグ優勝、日本一に導いた。2018年1月に死去した際に制定され、現時点で最新の永久欠番。
埼玉西武ライオンズ
稲尾和久(背番号24)
「鉄腕」の異名で知られた右腕で、1958年の日本シリーズで4連投4連投した際には「神様、仏様、稲尾様」と称えられた。MVP2回を始め、新人王、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振など多くのタイトルを獲得。シーズン42勝はスタルヒン(巨人)と並んで歴代最多。
北海道日本ハムファイターズ
大社義規(背番号100)
日本ハムファイターズの初代オーナー。プロ野球の発展に貢献したことから2009年に野球殿堂入り。その記念として、1981年のリーグ優勝時に着用していた「100」が永久欠番に制定された。
大阪近鉄バファローズ
鈴木啓示(背番号1)
通算317勝を挙げてパ・リーグで初の永久欠番となったが、2004年の近鉄とオリックスの合併を受け、本人了承の上でオリックスの永久欠番としては引き継がれなかった。
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