完全に片想い…同じ選手を2度も指名したレッドスキンズ
ワシントン・レッドスキンズはカリフォルニア大学のランニングバックだったカルバン・“カル”・ロッシがどうしても欲しかったのだろう。チームは2年間に2度も、第1巡指名にロッシの名前を上げた。
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最初は1946年、レッドスキンズが第9位指名でロッシの名前をあげるも、ロッシは大学3年生だったため、資格がないと分かる。そこでチームは彼がドラフト対象となった翌年に、再度第1巡目で指名したのだ。
ここからが大事なところだ。2度も指名されたロッシであるが、NFLでプレーするつもりはさらさらなかったのだ。彼がレッドスキンズに入団してプレーすることは一度もなかった。
宗教上の理由でプロ入りNGだった選手に、自宅まで押しかけてラブコールをしたレイダース
ブリガムヤング大学の優秀なオフェンシブラインマンだったイーライ・ヘーリングは、宗教上の理由からプロのアメフト選手になる意思がないことを明確にしていて、それを事前にNFLの全チームに通達していた。
しかし、オークランド・レイダースは、盗賊という意味のチーム名に相応しく、通達にかまわず獲得を試みることに決めた。そして、1995年のドラフト第6巡目でヘーリングを指名。その後、レイダースの重役だったブルース・アレンがヘーリングの自宅まで足を運び、3年間で150万ドルの契約を提示したが、へーリングはこれを拒否した。
「NFLの選手になりたくないというわけではないのですが、日曜日は礼拝日なのです」。当時、ヘーリングはシアトル・タイムズ紙にそう語った。「キリスト教徒の基本原則の一つは十戒であり、それは我々へ向けた主からのお告げです。その中には“安息日を心にとどめ、これを聖別せよ”と記されています。主は、その掟を享受できる人々へ向けて十戒を伝えているのであり、私は主の望みに従ったほうが長い目で見ると良い結果になると判断したのです」。
彼はそれから少し間を置いた後、「しかし、それほどの大金はやはり魅力的なものですね」と付け加えた。
史上初のドラフト1位指名選手は、NFLよりもゴム会社を選んだ
ジェイ・バーウェンジャーは、史上初のハイズマン賞受賞者であり、史上初のNFLドラフト指名選手だが、彼はNFLの舞台でプレーしたことはない。
1936年、フィラデルフィア・イーグルスに指名され、トレードでシカゴ・ベアーズへと渡ったバーウェンジャーだったが、彼はアメフトよりもビジネスに興味があった。そして彼は、リーグ側が提示した報酬額が十分ではないと思っていた。
「僕は、ビジネスの学位を取得して大学を卒業し、ゴム会社に勤めた。就職1年目にはデイリーニューズ紙でコラムの連載もしていたよ」。かつて彼はシカゴ・トリビューン紙の取材に対してそう答えた。「僕がプロの世界でプレーしなかったのは、彼らが金を支払わなかったからだ。高校生や慈善団体の前で演説を行ったわけでもないのに、たくさんのコーンビーフとマッシュドポテトをもらってお腹を壊したよ」
俳優、ジョン・ウェインを指名したファルコンズ
現在は7巡目までのNFLドラフトだが、1972年当時は17巡目まであり、後半になると指名される選手はプロで活躍する見込みの低い選手ばかりになっていた。そこで、ファルコンズはちょっとしたおふざけをすることに決めた。
ファルコンズのノーム・バン・ブロックリンコーチは、「ドラフトで最も荒々しく、屈強な男が欲しくないか!? アトランタ・ファルコンズは、“アパッチ砦”州のジョン・ウェインを指名する!」と叫んだという。
当時のコミッショナー、ピート・ロジール氏はこれを却下した。
※本記事トップ画像は、ジョン・ウェイン(…の、蝋人形)レッドスキンズが同じ指名権を2つの球団とトレード(しかも2回も!)
ワシントン・レッドスキンズのジョージ・アレン監督は1970年初め、周囲をまんまと騙すことに成功した。
ニューヨークタイムズによると、アレンは、レッドスキンズの監督になった最初の年に19の交渉をまとめた。しかし、球団が保有していた1973年の指名権をニューヨーク・ジェッツとトレードした後に、再度ロサンゼルス・ラムズとトレードしたのだ。更に、3位と4位の指名権もバッファロー・ビルズとロサンゼルス・チャージャーズの2球団とトレードした。
レッドスキンズは、これらの指名権と引き換えに4人の選手を獲得した。ジェッツのヴァーロン・ブリッグズ、ビルズのロン・マクドール、ラムズのリッチー・ペティートボン、チャージャーズのスピーディー・ダンカンである。
NFLは、このことに翌年まで気づかなかった。アレンは5000ドルの罰金を科されたという。
(第3回へ続く)