1997年6月25日、トロント・ラプターズはドラフト全体9位でマウントジオン・クリスチャン・アカデミー高校を卒業したばかりの18歳のトレイシー・マグレディを指名した。
そして1998年6月24日、ラプターズはドラフト当日に成立させたトレードで、ノースカロライナ大学での3年目を終えた21歳のビンス・カーターを獲得した。
2人はともにフロリダ出身で、従兄弟の関係にあり、ラプターズでプロキャリアをスタートさせた。
創設して日の浅かったラプターズは、365日の間に未来のバスケットボール殿堂入り候補を2人もチームに加えることになった。
ただ、2人が一緒にプレイした時間は、あまり長くなかった。
マグレディとカーター時代の2年目にあたる2000年の4月30日、ラプターズは球団初のプレイオフに進出し、ニューヨーク・ニックスとのファーストラウンド第2戦を終えて0勝2敗という状況に追い詰められていた(当時のファーストラウンドは5試合3戦先勝制)。前年のイースタン・カンファレンス王者との第3戦、第4クォーター残り1分11秒の時点で78-78の同点だったが、ニックスがその後60秒の間に9-2のランで抜け出し、勝負を決めた。
7点差で迎えた残り9秒、マグレディはゴールまで約7mの地点から放ったジャンパーを外した。仮に決まっていたとしても、最終的な結果に大きな影響を及ぼすようなショットではなかった。ラプターズにとって、シーズン最後のショットになっていただけだ。
球団創設5年目に初めて経験したポストシーズンは、こうして幕を閉じた。敗れた3試合での合計得点差はわずか12で、そこまでニックスとの間に力の差があったわけではなかった。
そして、マグレディがフリーエージェントの権利を得る夏を迎えた。
当時21歳だったマグレディは、2000年7月に「ファーストオプションになれるチームに行きたい。自分は違いを生み出せる」と、『Chicago Tribune』に語った。
そして彼はオーランド・マジックに移籍。スーパースターの大半が故郷でプレイする機会を得られずに引退するものだが、マグレディは若くして貴重なチャンスを掴み、その後7年で真のスーパースターに成長した。
しかしマグレディは、現役終盤の時期に『Toronto Star』のデイブ・フェスチャック記者に“心残りがある”と語っている。
「いまさらだけれど、思い返してみると、トロントに残りたかった。残っていたら、間違いなく優勝を狙えた。そのことをよく考えるんだ」。
それは我々も同じだ、トレイシー。
もし彼が残留していたら、と考えると、ひとつの疑問が浮かび上がる。
もしトレイシー・マグレディがトロントに残っていたら、どうなっていた?
もし彼が残っていたら、2000-01シーズン以降のラプターズがどういう成績を残していたかを、リーグ全体への影響に関しては考えず、想像を交えながら考察したい。
2001年、ラプターズはイースタン・カンファレンス・ファイナルまであと1勝に迫った。トレイシーから“T-Mac”と呼ばれるようになった彼は、マジックで平均26得点以上のスタッツを残し、MIP賞(最優秀躍進選手賞)を受賞した。
もし彼がこのシーズンもラプターズのトレイシーだったら、MIP賞を受賞できていなかっただろう。だが、フィラデルフィア・76ersとのイースタン・カンファレンス・セミファイナルに与えた影響は大きかったと考えられる。
ラプターズと76ersのシリーズは、カーターとアレン・アイバーソンの1対1が話題の中心だった。もしマグレディが在籍していたら、2人で76ersのディフェンスを切り崩していただろう。当時の76ersには、2人のオフェンスに対抗できるだけの力はなかった。
そして、ミルウォーキー・バックスとカンファレンス・ファイナルで対戦していたはずだ。
サム・カセール、レイ・アレン、グレン・ロビンソンのビッグ3でもアイバーソンに敵わなかったバックスが、カーターとマグレディのデュオに対抗できたわけがない。セカンドラウンドで最優秀守備選手賞のディケンベ・ムトンボ越しにダンクを叩き込んだマグレディのT-Macという愛称も、その時点で知名度を得ていただろう。
おそらくラプターズは、バックスと激闘を繰り広げた末にシリーズを制して初のNBAファイナル進出を果たしていたに違いない。
コービー・ブライアントとシャキール・オニールのロサンゼルス・レイカーズが相手では荷が重過ぎただろうが、当時のマグレディは22歳、カーターは24歳で、2人の全盛期はまだこれからという時期だった。
少しだけ実際の世界に戻ると、カーターは2001-02シーズンにけがに悩まされた。だが、もしマグレディがいたら、ラプターズがファーストラウンドで敗退することはなく、プレイオフを盛り上げていただろう。
それこそ、カーターのいないラプターズをセカンドラウンドに導いたT-Macが、オールスター級の活躍を見せ、MIP賞に選出されていたと考えられる。
2002-03シーズンは、カーターとマグレディのダイナミックデュオの間に優劣はなくなり、試合展開によってファーストオプションが変わっていたはずだ。
きっと2003年から2008年までにチームとして成功を収め、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペン以来最高のペリメーターデュオとして称えられていただろう。6度の優勝を成し遂げたマイクとスコッティに対して、VCとT-Macは2004年のファイナルでレイカーズにリベンジを果たし、2006年はダーク・ノビツキーのダラス・マーベリックスを破って2度の優勝をラプターズにもたらしていたはずだ。
その頃には30歳を迎えたカーターが一歩下がり、マグレディがデュオの先頭を走っていたのではないだろうか。
その後、ラプターズで成功を収めたマグレディは、カーターとラリー・オブライエン・トロフィー(優勝杯)を勝ち取った2年後、キャリア終盤に地元球団であるマジックと大型契約を結んでいただろう。マグレディはマジックでも、最終的に優勝には手が届かないものの、一定の結果を残すだろう。カーターはラプターズ一筋のキャリアを送り、マグレディと共に掴んだ球団初優勝をもたらした選手、そしてカナダのバスケットボール人気普及に大きく貢献した選手として称えられていたはずだ。
もちろん、1番と15番のユニフォームがスコシアバンク・アリーナに掲げられることになっていただろう。
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話を現実の世界に戻そう。もちろん、実際にはこんな結果にはならなかったのだが、“たられば”を想像してみるのも悪くはない。
ニックスに敗れてから20年後、ラプターズは2019年に球団初優勝を成し遂げた。
マグレディはマジックとヒューストン・ロケッツでスーパースターとしてのキャリアを送り、その後複数のチームを渡り歩いて2013年に引退。2017年には殿堂入りを果たした。
カーターは、2004年にニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン)にトレードされ、その後プレイスタイルを大きく変えたことで、22年もNBAでプレイし続けている。43歳になった今も、まだ現役でやれるだけの力を残したままだ。
2019-20シーズン終了後に現役を引退する予定のカーターは、おそらく4年後にスプリングフィールドの壇上に立ち、殿堂入りを果たすだろう。
チームメイトだった時間は短かったとしても、カーターが殿堂入り式典でマグレディをプレゼンターに指名するとしても、不思議ではない。
原文:What if Tracy McGrady and Vince Carter became a superstar duo in Toronto? by Gilbert McGregor/NBA Canada(抄訳)