『ラストダンス』第7~8話の5大注目ポイント
マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズが優勝した1997-98シーズンを追った全10話のドキュメンタリーシリーズ 『The Last Dance』(邦題『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』/Netflix) の第7話と第8話から、5つの注目ポイントをピックアップしよう。
1. チームへの高い要求
『ラストダンス』ではこれまでもジョーダンの精神やモチベーションについて深く掘り下げてきただけに、これはスクープというわけではなかった。ジョーダンが、新人に対する海兵隊の教官よりも激しくブルズのチームメイトたちを駆り立てたのは、もちろん彼自身のためだった。ジョーダン隊が優勝という任務を達成できるか知りたかったのだ。
だが同時に、それはチームメイトのためでもあった。ブルズの選手たちをからかったり、ケンカしたのは、最も厳しい「愛のムチ」だったのだと想像できるだろう。そしてついに、ジョーダンはそれについて心の内を明かした。
ドキュメンタリーのクルーと話すなかで、ジョーダンは「勝利には代償が伴う」と述べている。
「リーダーシップには代償が伴うんだ」。
そしてまた、「チームに加わったら、私がやってきた一種の基準に沿ってもらう。それは譲れない」とも話した。
ジョーダンが最初に引退していた間(1993-94シーズン~1994-95シーズン途中)にブルズに加入したセンターのビル・ウェニントンは、“ボス”が戻ってきた時に「岬でジャンプしてほしい。だが、落ちないようにしなきゃいけない」と言われたと明かしている。
B.J.・アームストロングは「ああいうメンタリティを持つ彼がナイスガイでいることはできなかった」と述べた。
ジョーダンと一緒の時に大事なのは、ベストを尽くすことではない。“彼にとってのベスト”でやることなのだ。ジョーダンは第7話のエピソードの最後に、自分がやらなかったことをチームメイトに求めることはなかった、と言った。その時の、ジョーダンはとても感情的だった。
ジョーダンは「自分は勝利を望んでいたが、彼らにも勝利の一員であってほしかった」と話している。
「そういうやり方でプレイしたくなければ、しなければいい」。
そこで彼は「休憩だ」と言って、そのシーンに自らカットをかけた。
2. 父ジェームズ・ジョーダン
1993年の夏を避けることはできなかった。カロライナの高速道路の路上でジョーダンの父親ジェームズ・ジョーダンが殺された時のことだ。第7話で、ジョーダンが引退を決めたのは父親の悲劇的な死が理由だったのではないと示された。1993年のタイトルを獲得したあと、あるいは1992年の秋の時点で、彼はすでに引退を考えていたというのだ。
だが、彼が野球に挑戦したのは、父親による影響が大きかった。
Michael's No. 1 fan from the beginning. #TheLastDance pic.twitter.com/nW4YeC1p7Y
— Chicago Bulls (@chicagobulls) May 11, 2020
バスケットボールで頭角を現す前に、ジョーダンは野球を愛していた。ボー・ジャクソンやディオン・サンダースといったスーパーアスリートたちが、ふたつのスポーツで大きく成功したのを見ていた。だが、シカゴ・ホワイトソックス傘下のダブルA球団、バロンズでプレイするためにバーミングハムへと向かったのは、家族の野球好きと、幸せになれることをしろという父親の教えに従った結果だった。
父親の死から10週間後、1993年10月の引退会見でジョーダンが発したふたつの言葉が思い出される。ひとつは「『引退』という言葉は、好きなことをやれるという意味だ」というフレーズ。もうひとつは「彼(父)は自分の最後のバスケットボールの試合を見た」という発言だ。
ドキュメンタリーが過去と未来を行き来する間、父ジェームズ・ジョーダンは、スコッティ・ピッペンのライバルかのようにずっと息子のそばにいた。1996年のシアトル・スーパーソニックスとのNBAファイナル第6戦では、その存在に一躍スポットライトが当てられた。シリーズは、ブルズが3連勝と先行しながら第4戦と第5戦を落とし、ユナイテッド・センターに戻ることになった。シリーズを追っていた我々メディアは、裏で見えざる手が脚本でも書いているのかと不思議に思った。優勝決定戦となった第6戦が行なわれたのは、父の日だったのだ。家に父親がいないなかで初めてジョーダンとブルズが手にしたタイトルだった。
我々はこれまでも、優勝の瞬間が訪れた時にNBAのスターたちが感情的になり、涙を流すところを見てきた。だが、トレーナーの部屋でバスケットボールを抱きしめながら、カメラに背を向けるようにしてむせび泣くこの時のジョーダンは、まったくの別物だった。
3. スターになったピッペンと1.8秒事件
1993-94シーズン、ピッペンは自己最高のシーズンを送り、ブルズを55勝27敗の好成績へと導いた。トレーニングキャンプ直前にマイケル・ジョーダンを失ったブルズを、だ。MVP投票でアキーム・オラジュワン、デイビッド・ロビンソンに次ぐ3位だったピッペンは、オールスターゲームでMVPとなり、スターの中のスターというジョーダンの役割を果たした。
ピッペンはジョーダンとは個性も違う異なる選手だった。それもあって、チームメイトたちとうまくいっていた。だが、我々はジョーダンが偏執的なまでにチームメイトたちを駆り立てるスタイルを見ていただけに、当時のブルズはややソフトに感じられた。
いずれにしても、そのブルズ内でのダイナミクスは、ニューヨーク・ニックスとのイースタン・カンファレンス・セミファイナル第3戦で終盤にピッペンが出場を拒んだ1.8秒の間に変わった。フィル・ジャクソン・ヘッドコーチはラストショットをトニー・クーコッチに打たせるプレイを描いていた。ピッペンを囮としてコートに立たせる予定だったが、彼はプレイを拒否した。だが、長年にわたってジョーダンのNo.2だった序列がようやく上がったのに、ピッペンは新人のクーコッチのサポート役に戻ったのだ(すでにピッペンを苛立たせていたジェリー・クラウスGMが見つけた欧州からの選手のサポート役だ)。
この時のピッペンは、完全に間違いだった。エースがチームを裏切ったこの事件から、ブルズの様々な選手たちが成熟した大人としていかに振る舞ったかを振り返れたのは興味深かった。
ちなみに、クーコッチはこのブザービーターの決勝ショットを決め、ニックスの連勝を止めている。
スティーブ・カーは「彼は我々を見捨てたんだ」と話した。
「衝撃的だった」。
センターのビル・カートライトはあまりの衝撃に、ロッカールームでピッペンに声をかけた時に涙を流したという。
ピッペンはその場ですぐに謝罪した。カーは、チームがそれを受け入れたと話している。そして残りの試合で、ピッペンはすさまじいプレイを見せたものの、ブルズは第7戦の末に敗退している。
ピッペンのレガシー(遺産)は確かだ。1997年にはNBA史のトップ50選手のひとりに選ばれ(引退したのはその7年後だ)、2010年にバスケットボール殿堂入りも果たした。NBAの歴史で最も重要な二番手と広く考えられている。
だが、今日に至るまで、シカゴには「ピッペン1.8」と読まれてしまう、いつもの背番号33のユニフォームが存在している。
4. 野球からバスケ復帰に向けた肉体改造
NBA最高の選手は1シーズン、野球のマイナーリーグでプレイした。1995年春にMLBのストライキがなかったら、ジョーダンは野球を続けていたかもしれない。
1995年3月から、オーランド・マジックによってブルズがプレイオフ敗退を余儀なくされるまでのおよそ2か月が有名なのは、主に、復帰したジョーダンの反響を呼ぶパフォーマンス、そして有名な背番号23ではなく背番号45を短期間使用したことによる。ジョーダンはさび付き、新しすぎることはなかった。バスケットボール選手としてではなく、野球選手としてトレーニングしていたのだ。ジョーダンは、肉体的に再び変わらなければならなかった。
Good Guys Wear Black (& Red) #TheLastDance pic.twitter.com/gi6LnaJL3W
— Chicago White Sox (@whitesox) May 11, 2020
ジョーダンは「振り返ってみると、バスケットボールの肉体に戻すための十分な時間はなかった」と復帰直後の1994-95シーズンについて話している。
ひとつのスポーツに必要とされる反射神経や強さ、アジリティ(敏捷性)は、別のスポーツで必要とされるそれとは大きく異なる。6フィート7インチ(約201cm)、280ポンド(約127kg)のヤンキースの強打者アーロン・ジャッジをNBAで役に立つパワーフォワードの肉体にする以上に繊細なことだったかもしれない。だが、それが現実だった。
ドキュメンタリーのこのパートでは、1995年夏に撮影された映画『Space Jam』(スペースジャム)で自身を演じたジョーダンや、彼がいかに必死に調子を取り戻そうとしていたかが示された。
ジョーダンは撮影スタジオの一画に、毎日2時間ワークアウトするためのジムと完全なバスケットボールコート、通称『ジョーダン・ドーム』を作らせている。そして、夕方にはNBAのスター選手手たちとトップクラスのピックアップゲームをし、自分のプレイを磨きつつ、ほかの選手たちの力を観察したのだ。
▶ Netflixで「マイケル・ジョーダン: ラストダンス」を視聴する
5. 不満から呼び起こす超人的パフォーマンス
スポーツにおいて、選手やチームが適切なタイミングで自分たちの才能の深さを把握し、特に集中している時の状態、いわゆる“ゾーン”というものがあるという。我々はずっとそう耳にしてきた。できないのは、思うようにそのスイッチを切り替えることだ、と。
だが、どうやら、ジョーダンは例外だったようだ。彼はその瞬間の不満を素晴らしいパフォーマンスに変えていただけでなく、そういったパフォーマンスを呼び起こす方法を知っていた。彼は、超人ハルクに変身するブルース・バナーだったのだ。
ラブラッドフォード・スミスとの一件は伝説だ。当時ワシントン・ブレッツでプレイしていたこのガード選手は、シカゴで対戦した夜に得点を量産してジョーダンを怒らせ、バック・トゥ・バック(2日連続試合)の2戦目でジョーダンに仕返しをくらった。だが、初戦の試合後にスミスが言ったとされていた「マイク、ナイスゲーム」という発言は、実際にはなかったのだという。ジョーダンはなぜか、彼にそう言われたということにして、自らを奮い立たせてリベンジを果たしたのである。
それは、アイザイア・トーマスとジョーダンの間を不和にしたことと同じようなものだ。今回の『ラストダンス』では、そういった話がたくさん出てきた。
1995年のプレイオフ第1戦でオーランド・マジックが勝利したあとのニック・アンダーソンの「45番(今のジョーダン)は23番(以前のジョーダン)じゃない」という発言もその類のエピソードだ。
そして、『ラストダンス』の以前のエピソードで、手渡されたタブレットでトーマスのコメント(※ピストンズの敗退が決まった1990年イースタン・カンファレンス・ファイナルの試合中にブルズの選手たちと握手をせずにコートを去った事件について語ったもの)の動画を見た時のジョーダンの反応の再来も見られた。
今回はギャリー・ペイトンの発言だ。1996年NBAファイナルで第4戦よりも前の段階でジョージ・カール・ヘッドコーチがペイトンにジョーダンをマークさせていたらシリーズが変わっていたかについて語っていたシーンのことだ。
ペイトンは「彼を殴り、叩き、殴り、叩き続けた。マイクに大打撃だった」と話した。
「それからシリーズが変わった」。
それを見たジョーダンが大笑いしたことは一旦脇へ置いておこう。ハイライトは、タブレットをインタビュアーに返す時に、ジョーダンが笑いを堪らえようとしながらペイトンの愛称『ザ・グローブ』と口にしたことだ。
もちろん、大笑いしたところもかなり良かったのだが。
原文: 'The Last Dance': 5 takeaways from Episodes 7 and 8 by Steve Aschburner/NBA.com(抄訳)