[インタビュー]ロン・ハーパー「72勝10敗のチームは特別なチーム、特別な年だった」(大西玲央)

大西玲央 Reo Onishi

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ドアを開けるとそこにはおしゃれなスーツ姿で、ひざに氷を巻きつけているロン・ハーパーの姿があった。

シカゴ・ブルズ、ロサンゼルス・レイカーズで合計5度の優勝を経験したレジェンドが、NBA Japanのインタビューに応じ、現役当時のことや現代のNBAについてたっぷり語ってくれた。


――ひざは何かあったのですか?

歳をとったんだよ。「長年プロバスケットボールをやりすぎ」っていうやつだ(笑)。1か月半ほど前にひざの代替手術を行なってね。ただ今度はもう片方が痛くなってきたから、こっちもやろうかなと考えている。

――試合終盤にあなたたちがベンチでひざをアイシングしている姿を思い出しました。最近の選手はやらないですよね?

ああ、いつもひざを冷やしていたね。今はいろいろハイテクになっているからね。脚を丸ごと装置に入れて、5~10分くらいで終わるんだ。今の選手たちは贅沢だよ(笑)。

――日本には過去に大学時代、1985年夏季ユニバシアードで神戸に来ていますが、それ以降もいらしたことはありますか?

ああ、あるよ、何度かね。NBAでの仕事、NBAケアーズとかで来たね。素晴らしいファンがたくさんいる。

――今NBAはちょうどオールスターとトレード期限が終わり、面白い時期に突入して来ました。

ここからが本当のバスケットボール、プレイオフ・バスケットボールの時期だ。今それぞれのチームはポジション争いをしている。シーズンの前半はオールスターに向けてプレイするのだけど、そこからはお互い誰とプレイオフで当たるかなどを強く意識し始める。今年だと多くのチームがキャブズ(クリーブランド・キャバリアーズ)や(ゴールデンステイト)ウォリアーズを意識しているだろう。この時期が一番いいよね。

――注目しているトップチームはどこですか? 

東だとクリーブランド、トロント(ラプターズ)、(ボストン)セルティックス。西だとゴールデンステイト、ヒューストン(ロケッツ)、サンアントニオ(スパーズ)だね。それらがトップ3チームだ。どうなろうと、このチームたちを倒していかなければならない。

――あなたはマイケル・ジョーダンとコービー・ブライアントの両方とプレイしたことがあるレアな選手の一人ですが、二人の共通点や相違点を教えていだけますか?

まずあの二人を比較するときに思いつくのは競争心だ。彼らは一つだけのことを考えながら毎日練習にやってくる。全力で上達することだ。休む日なんてない。凄まじい努力家たちだった。

MJはコービーより少し大きく、強さがあったかな。コービーは痩せ型の198cmだったが、MJは身体がしっかりとできていた。ただ二人とも素晴らしいキャリアを送っていて、それはハードワークから来ているんだ。コービーがMJから学んだことの一つは、バスケットボールのコート外でどれだけ努力をするかということだね。

Ron Harper Kobe Bryant

――その力強い競争心、今の選手たちで持っているなと感じる選手はいますか? 

レブロン・ジェームズだ。彼は高校のときからそれを持ち合わせていた。彼も相当努力している。彼が高校のときにワークアウトするのを見たのだけど、すごかったよ。今彼が送っている素晴らしいキャリアは、彼がしっかりと努力し、準備してきた結果なんだ。

――ブルズとレイカーズに在籍していたこともあり、あなたにとってフィル・ジャクソン(当時ヘッドコーチ/現ニューヨーク・ニックス社長)はとても重要な存在であると思われますが、彼はブルズ時代とレイカーズ時代で違いましたか?

いや、フィルはフィルだったよ(笑)。彼は変わらない。彼はチームワークを信じ、自分たちのコミュニティを作り上げた。そしてチームにとって良いと思ったことをやっていた。たまに変なこともやらせたりしていたよ。ほとんどのNBAチームは太極拳をやったり、ヨガをやったり、床に寝転がって瞑想なんてしなかったと思う。

フィルは普通とは違うバスケットボールの捉え方を持ち込んだ。椅子も何もない部屋に連れていかれて、彼は「床に寝て、目を閉じろ。瞑想して、息をすることに集中しろ」って言うんだ。最初は部屋に行ったときに「なんだよこれ!?」って思うんだけど、実際効果があるんだ。選手たちに、普段経験しないようなことを経験させてくれた。

シカゴ時代、最初に太極拳をやったことをよく覚えているよ。「靴を脱いで、汗で濡れていない服に着替えてこい」って言うんだ。着替えて出てくると、バスケットボールのコート上で太極拳をやるんだ。身を流れに任せてね。面白かったよ。他所は間違いなくやってなかったね。

――選手たちは皆それを受け入れていたのですか? 

まあ、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、トニー・クーコッチ、こういった選手たちがやっていたからね。挑戦してみることに損はないさ。やっていて楽しかったし、チームとしても成長できた。

――優勝リングをいくつも手に入れてますしね。正しかったのでしょう。 

正しかった、間違いないね(笑)。

――最近フィル・ジャクソンはニューヨーク・ニックスの球団社長として、あまり良くない形でニュースに登場したりもしていますが、それについてはどう思っていますか?

まずはフィルがニューヨークに来る前の状態から見る必要がある。サラリーキャップを3200万ドル超過していた。ドラフト1巡目指名権も2巡目指名権も全部トレードで失っていた。フィルが来る前からしてひどい状態だったんだ。サラリーキャップを超過している状態で、フィルは在任してからの3年間で1巡目指名権が1つしかなかった。それはフィルの責任ではなく、フィルが来る前の人間の責任だ。

チームが指名権を全部手放してしまったのはフィルの責任ではない。ジェローム・ジェームズと5年3000万ドルで契約したりしていたのはアイザイア(トーマス)の責任だ。フィルを責める前に、まずはそこを理解しないといけない。しかし、みんなそこを見ずにただフィルを責めたがっている。

まずは彼が何をやってきたかを見なければいけない。1巡目指名権は1つしかなかったんだ。唯一彼が失敗したと言えるのは、今シーズン怪我したジョアキム・ノアと契約したことだろう。でもそれだけだ。彼はニューヨークにようやく優れたポイントガード(デリック・ローズ)を連れてきた。その前の2年間を見てもらえばわかるけど、それまではチームを任せられるようなPGはいなかった。今も新たなピースとなれる選手を集めようとしている。しかしニューヨークという街は、「今すぐ勝ちたい」という街なんだ。

――あなたの現役時代の話に戻します。当時、この選手相手にプレイするのが好き、この選手を守るのは大変だったと感じた選手などを教えてください。

リーグに入った頃はシドニー・モンクリーフがいたね。もう歳だったけどまだまだプレイできる選手だった。ジェフ・マローンもいたな。ボールを持っていないときの動きが素晴らしかった。ローランド・ブラックマンなんかもずっと追っかけ回してないといけなかった。私がリーグに入った当時はツーガードのポジションが花形だったんだ。ジョー・デュマーズがいて、クライド・ドレクスラーがいて……素晴らしいツーガードがたくさんいたから、楽な試合なんてなかったね。

――それでもあなたは得点を量産することができました。

得点はできたね。それが私の仕事だった。私は若いチームでプレイしていた。1986年にNBA入りしたとき、クリーブランドは1位指名でブラッド・ドーアティを獲得、私を8位指名で獲得、マーク・プライスを3巡目か4巡目で獲得(※実際は2巡目)、デル・カリーをトレードで獲得。ジョニー・ニューマンという選手もいた。今はもう亡くなってしまったホット・ロッド・ウィリアムズもその年プレイしていた。とても若いチームだったんだ。その中で、コーチは自分に得点を求め、それが私の仕事だった。

1年目が終わると、みんな成長し始めたのもあって、コーチからは「次はオールラウンドなスキルを見せて欲しい」って言われたんだ。マーク・プライスが自分の仕事をしっかりとこなし、ブラッド・ドーアティがオールスターになり、ホット・ロッドがシックスマンだった。良いチームだったよ。

――キャブズでプレイした後、ロサンゼルス・クリッパーズを経て、1994-95シーズンからブルズに移籍しましたが、ブルズを選んだ理由を教えてください。

5年契約を用意してくれたからだよ(笑)。いや、(ジョーダン引退後の)ブルズはそれでもイースタン・カンファレンス・ファイナル進出まで後1試合というところだったんだ。スコッティ・ピッペンがあのひどいファウルコールを取られなければ、イースタン・カンファレンス・ファイナルに進出できていたチームだった。だから当時、このチームに入れば何か特別なチームの一部になれると感じたんだ。ブルズは一流の組織で、もし自分がどこかで優勝するならここだって思ったんだ。

Ron Harper Bulls

――そうしたらあの男が引退から帰ってきた。

MJ! そう! あの男(笑)、あの男が引退から帰ってきたんだよ。

――役割が大きく変わることになりましたよね。それは難しかったですか?

役割は完全に変わったね。いまだに覚えているよ。ニューヨーク相手にTNTで放送される試合で、とても盛り上がっていたんだ。私も「全国放送される試合でたくさんプレイするぞ」って気合が入っていた。MJが先発して、第1Q残り23秒くらいでフィルが「MJと交代してこい」って言ったんだ。サイドラインで準備して待っているんだけど、結局MJがボールを持ったままクォーター終了のブザーがなるんだ。

これまでDNP(Did Not Play=不出場)なんて経験したことなかったけど、その年は4~5回あったね。だから「そうか、こういう感じなのか」って思ったよね。でもコーチ・フィルは、私に「大丈夫だ、何か良い策を考える。だから自信をなくしてはいけない。信頼している。努力し続けて、いつでもいける準備をしていてくれ」って言ってくれたんだ。それでもまだベンチに座っていたんだけどね(笑)。

おそらく自分よりも、自分の周りにいる家族や友人のほうが違和感を持っていたと思う。「いつもみたいに得点してないじゃないか、いつもほど出場していない」ってね。でも私はとにかく勝ちたかったんだ。優勝できるチャンスを持ったチームにいたかった。だから平気だったよ。耐えて、耐えて、報われた。

――そしてペニーとのマッチアップが全てを変えたのですね。

ペニー・ハーダウェイ――そう、イースタン・カンファレンス・ファイナルに向けた練習があって、廊下を歩いていたら、後ろからフィルに「ロニー!」って呼び止められたんだ。「なんですかコーチ?」って聞き返したら、「先発だ、ハーダウェイとマッチアップだ」って言われたんだ。振り返って「え??」って言うとまた、「ペニー・ハーダウェイ相手に先発だ」って言うんだよ。

第1ラウンドでほとんどプレイせず、第2ラウンドでもほとんどプレイせず、イースタン・カンファレンス・ファイナルで突然先発するのかって思ったよね。もちろん「わかりました」と言ったよ。ペニー・ハーダウェイは大型ガードだったから、彼を守れる大型ガードが必要だって説明されたんだ。それが自分だった。

――そしてそれが全ての始まりとなったわけですね。

ああ、それが始まりだった。イースタン・カンファレンス・ファイナルをホームで負けてしまったんだ。MJが復帰した年だった。試合後、オーランド(マジック)はホーレス・グラントをコートで担いだりしてお祭り騒ぎだった。相手の選手たちが「背番号45はもう23じゃない」って言っているのが聞こえてきた。自分たちのロッカールームに戻ると、完全に沈黙。ショックが大きかった。

そうしたらMJが振り返って、「明日からまた練習だ」って言ったんだ。「え? 明日?」って思ったよ。でも彼は「俺を悪く言っていた奴らに背番号23をまた見せてやる」って言ってね。本当にその翌日から練習を始めたんだ。準備し始めた。フィルと話し合い、フィルは「お前をポイントガードで起用して、スコッティを3番、MJを2番で起用しようと思っている。ポイントガードはできるか?」って聞かれたから「できる」って返した。彼は私を信頼してくれた。MJとスコッティも信頼してくれた。だから私は自分のプレイスタイルを変えたんだ。

――あなたは“ブレックファスト・クラブ”の一員でしたよね?

ああ、そうだ。MJ、スコッティ、私――毎日ね。MJの家は大好きだったよ(笑)。彼の家の地下にコートとワークアウトする部屋があってね。朝6時45分から8時か8時半くらいまでトレーニングしていた。そしてとても腕のいい女性のコックがいたんだ。搾りたてのオレンジジュース、新鮮な果物、パンケーキ、グリルとどれも絶品でね。トレーニング中すごい良い匂いがするんだよ(笑)。トレーニングしに行くのも好きだったけど、何よりもご飯がとても美味しかった(笑)。

――結束するための集まりだったのですか?

結束力を高めるためのものでもあったけど、それ以上に競争という意味合いが強かったね。最初に行ったとき、MJは確か105kgから110kgくらいのベンチプレスをやっていて、スコッティは40kgのダンベルでトレーニングしていたんだ。最初は「さすがにこれはできないな」って思っていたんだけど、3~4週間くらいすると自分も102kgのベンチプレスをして、35kgのダンベルでトレーニングするようになっていた。そういう競争心を生み出すものでもあったし、チームメイトとしての成長も得られたね。

Ron Harper Bulls 1995-96

――今はニュージャージー州に住んでいるのですよね。息子さんは今高校生ですか?

ああ、息子は高校生で今ちょうど州大会の決勝戦をやっているはずだよ。今回一緒に来れなくて残念がっていたけど、さすがに州のチャンピオンシップは守らないとな(笑)。

――2005年から2年間、デトロイト・ピストンズでアシスタントコーチを務めていましたが、今後またコーチしたいという願望はありますか?

いや、もうないね。少しAAU(アマチュア体育連合)の試合をやったりしているけど。息子たちの試合とかもあるしね。11歳の息子もいるのだけど、彼もまた結構上手いんだ。娘もいるし、今は家族ともっと時間を過ごそうと思っているよ。

――最近ACL(ひざ前十字靭帯)の手術を受ける選手が相次いでいますが、あなたもACLの怪我を経験し、見事に復帰を果たしていますよね。平均得点も怪我する前とほぼ同じ状態で復帰しました。

あれはね、怪我をしたあと、「ロン・ハーパーはもう昔の姿には戻れない」って言われていたのが聞こえてきていたからなんだ。だから必死で戻ってきた。

――当時(1990年)はACLの手術をするというのは今ほど一般的ではなかったですよね。

そうだね。当時はACLの手術をすると3か月は杖をついて、そのあと瘢痕組織を切除したりしないといけなかった。悪夢のようだったね。今は手術したその日に立ってる選手もいる。当時だと半年くらいは入院生活だったよ。リハビリもかなり辛かった。それが嫌で手術を受けない選手もたくさんいたよ。復帰するのに1年半かかった。

とても辛かったけど、厳しい状況でこそ自分がどれだけタフでいられるかがわかるんだ。だからリハビリが辛ければ辛いほど、自分はタフになっていったね。

――今でもよくNBAを見られますか?

ああ、たくさん見てるよ。

――1つ聞きたいことがあるんです。最近はこうスリーを多投する時代になっていますが――。

今はもうどんどん打つよね。空いてればとにかくスリーだ。そういう流れになっている。

――あなたはクリッパーズ時代にはそれなりにスリーを打っていて、ブルズ時代はあまり打っておらず――。

ちょっと待って、ちょっと待って! ブルズのチームに誰がいたか知ってるだろ?(笑)MJがいて、スコッティがいて、クーコッチがいて、スティーブ・カーがいて、いつ打とうっていう感じだったんだよ。1試合5本くらいしか打っていなかったからね(笑)。

――はい、それはとてもよくわかっています(笑)。ただスタッツを見返して見ると、ブルズ時代のあなたは大体スリーが平均1本くらいなのですが、1996-97シーズンだけ2~3本打っているんですよね。これは何か戦略的なことが背景にあったのでしょうか?

フィルがとにかく「空いてたら打て」って言っていたんだ。今のNBAではスリーはとても重要な役割を果たしているけど、当時のチームは1試合15~20本くらいしか打っていなかった。今は25~30本くらい打っているよね。練習やシュート練習なんかで打ったりはしていたけど、ただ(試合でも)空いてればもちろん打っていた。戦略的なものではなく、単純にその年は打つタイミングがあっていたんだ。

――あなたはたくさんの良いシューターと一緒にプレイしていますよね。

素晴らしいシューターたちとプレイしてきたよ。マーク・プライス、デル・カリー、スティーブ・カー、グレン・ライス、クーコッチ、ジャド・ブシュラー。クリッパーズ時代はあんまりいなかったかな(笑)。

――その中でも一番のシューターは誰でしたか?

デル・カリーだ。スティーブ・カーもスリーが上手かったけど、デル・カリーはとにかくボールを打つことに関してはずば抜けていた。ステフ・カリーがボールを放り投げてるの見てわかるよね? デル・カリーは本当にシュートがうまかった。

でも、シュートを打つのを見ているのが一番好きだったのはトニー・クーコッチだね。彼はコート上に誰がいようと関係ない。「ボールよこせ、シュートが打ちたい!」っていう選手だった(笑)。

――彼は今でいう“ストレッチ4”(外角シュートの得意なパワーフォワード)の走りみたいな選手でもありますよね。

トニーはすごい選手だった。もし同じコートでダーク(ノビツキー)とトニー・クーコッチを戦わせたら、トニーがボロ勝ちするはずだ。通算3万得点はしていないが、彼はダークをあらゆる方法で打ち負かすだろうね。ダークは素晴らしい選手だけど、トニーは全てを持ち合わせていた。まあ、たまにディフェンスで手を抜くかもしれないけどね。

――まあそれはダークも一緒だから大丈夫ですよ。

ハハハ! 間違いないね(爆笑)。

――昔のチームメイトとは今でも親しいのですか?

もちろんだよ。ずっと親しくしている。スコッティとはよく話すし、MJとも話す。グラントと会ったりするし、ニュージャージー/ニューヨーク近辺に住んでいるのもあって引退した上の世代の選手とも会う機会がある。たまに一緒に集まったりなんかしてね。クリーブランドのホームゲームに行けば、ラリー・ナンスだったり、マーク・プライスだったり、亡くなる前のホット・ロッドなんかもいたね。親しくしているよ。

――ラリー・ナンスといえば、今息子さんがNBAでプレイしていますよね。

そう、ラリー・ナンスの息子ね。彼のことはまだ彼がジャンプできる前から知っているよ。今はもう体育館から飛び出せるくらいジャンプできるようになっちゃったけどね。

――確かRJ・ハンターの名付け親でもあるんですよね? お父さんとチームメイトだった。

そう、ロン・ハンター。私とロンは地元が一緒でね。大学時代は2年間ルームメイトでもあった。RJはセルティックスでキャリアを初め、今年はブルズに少しいて、今はDリーグのロングアイランド・ネッツでプレイしている。

――彼の試合には行きましたか?

ひざの手術なんかもあってまだ行けていないんだ。話はしたよ。下を向くな、厳しい道だけど頑張れってね。シュート力はあるのだけど、怪我をしていたのがもったいなかった。このリーグは怪我をした選手の代わりはいくらでもいるからね。

――その指につけているのは優勝リングの1つですか?

ああ、これはLA時代、2002年のときのリングだね。シカゴ・ブルズ時代のリングはシカゴにあるスポーツ・ミュージアムに展示されているんだ。

Ron Harper

――最も思い入れのある優勝チームはありますか? 

最初のやつだね。あの72勝10敗(当時のシーズン最多勝記録)のチームは特別なチーム、特別な年だった。素晴らしい経験だった。とてつもない努力を必要としたが、「止まらないぞ」っていう思いでプレイしていた。特別な年だったね。

――端から見ていても、あのブルズのチームはとても結束力の高いチームに見えました。

そうだね、とてもタイトで親密だった。チームメイト同士で食事にたくさん行ったり、しょっちゅう出かけたりしていたね。

――一方レイカーズではシャック(シャキール・オニール)とコービーの確執がありました。

(ブルズ時代とは)かなり違った経験だったね。最初あのチームに入ったとき、バスケットボールをした後はみんなそれぞれが別々のことをするっていう状態だった。なんとなく、選手たちを連れ出したり、食事を一緒にする文化を作ろうとはしたけど、そうなることはなかった。ただ、結局コートに足を踏み入れたときに同じ目標を持ってプレイできていれば大丈夫なんだ。

最初の年は私のほかに確かジョン・サリー、ブライアン・ショー、ロバート・オリーといったプロ意識の高い選手がいたから、結果的にはうまくいったよ。

――最後に、日本のNBAファンに向けてメッセージをいただけますか?

日本のファンのみんな、そしてこれからバスケットボールを始めようとしている若い世代に、とにかく楽しんでプレイをしてほしい。夢を追いかけて、ゴールを追い求めてほしい。自信を持って、自分を信じていれば、誰にも負けないくらい上手くなれるはずだ。だからコートに出て、プレイすることを楽しんでほしい。グッドラック!

――ありがとうございました。

こちらこそありがとう!


インタビュー:大西玲央 Twitter: @bullsfij
写真:
及川卓磨(NBA Japan編集長) Twitter: @oitaku
取材:2017年3月10日(東京都港区六本木)

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大西玲央 Reo Onishi

大西玲央 Reo Onishi Photo

アメリカ・ニュージャージー州生まれ。国際基督教大学卒。NBA Japan / The Sporting Newsのシニアエディター。記事のライティング以外にもNBA解説、翻訳、通訳なども行なっている。訳書には『コービー・ブライアント 失う勇気』『レイ・アレン自伝』『デリック・ローズ自伝』「ケビン・ガーネット自伝』『ヤニス 無一文からNBAの頂点へ』。