友人を失ったときのような喪失感
日本時間1月27日(現地26日)、元ロサンゼルス・レイカーズのコービー・ブライアントがヘリコプターの墜落事故により、13歳の娘のジアンナさん、その他7人の犠牲者とともに、突然この世を去った。スポーツ界全体に衝撃をもたらしたこの事故による悲しみは、2週間が経った今も消えることなく続いている。
足を捻挫した状態で決勝ショットを沈め、利き手の人差し指を痛めたままシュートを打ち続け、アキレス腱の切れた足で立ち上がってフリースローを決めるコービーの姿を長年にわたって見てきた。そんな不屈の男が、あまりにも突然に、悲劇としかいいようのない形で生涯に幕を閉じてしまったことが、いまだに信じられない。事故の前日にレブロン・ジェームズがコービーの通算得点記録を抜き、コービーがレブロンをツイッターで称えていた直後のことだっただけに、そのショックはなおさら大きかった。
訃報から数日後、日本ではNBA公式視聴・配信サービス『NBA Rakuten』が「俺達のコービー・ブライアント」と題した追悼番組を急遽配信した。この番組のなかで、音楽家の岩崎太整さんは「友達が亡くなったときに感じるドーンとくる感じ」と言い、バスケットボール解説者の佐々木クリスさんも「家族が亡くなったような感じ」と表現していたように、このえもいわれぬ喪失感はまさに身内を失った感覚に近い。僕自身も、コービーと同世代のいちファンとして、メディアのはしくれとして、そのキャリアを長年追い続けてきただけに、他人事とは思えず、訃報を知って涙があふれてきた。愛する夫と娘の1人を失ったバネッサ夫人、そして遺された3人の娘さんのことを思うと、同じく子を持つ親として胸が痛む。
それでも、NBA日本公式サイトの編集長という立場として、できる限りのことを伝えていかなければいけない。個人的な感傷に浸るのはそのあとにしようと決め、とにかく目の前にある仕事に集中するようにした。僕のような立場の人だけでなく、誰もが仕事や学校といった普段の生活があり、家族がいる。ショックと悲しみを抱えながらも、誰もが自分のやるべきことをやらなければならない。それは皮肉にも、コービー自身がキャリアを通じて教えてくれたことだった。
事故の翌日、レブロンは亡くなったコービーに対するメッセージをインスタグラムに投稿した。
「僕はあなたのレガシーを守り続けると約束する。あなたは僕たちみんなにとって、特にレイカーネイションにとって、本当に大きな意味を持つ人だった。あなたの遺産を背負って前に進み続けることが僕の責任だと思っているよ」。
また、バネッサ夫人も事故からわずか3日後、インスタグラムを更新し、深い悲しみとともに前に進もうと努力している姿勢を見せた。
「これからの私たちの人生がどうなっていくのかは分かりませんし、あの2人を抜きにそれを想像することはできません。それでも毎朝目を覚まし、前に進もうと尽力しています。コービーと私たちのジージーが、その道を照らしてくれているからです」。
誰よりも今回の事故にショックを受けているであろうこの2人がこうして前を向く姿勢を示したことは、多くの人にとって少なからず励みになったのではないだろうか。きっと天国にいるコービーも、悲しみに暮れる人たちに対して、前を向き、自分の人生を懸命に生き続けてほしいと願っているはずだ。
同世代のスーパースター
少しだけ、僕自身のコービーの思い出を振り返りたい。コービーの存在を知ったのは1996年、僕が19歳の頃だった。高校を卒業したばかりのコービーは、その年、18歳でNBAデビューを果たした。1年目でスラムダンクコンテスト優勝、2年目にはオールスターゲーム出場など、プロ入りからほどなくして注目の若手選手になっていたコービーの活躍を見ながら、同世代の自分もなんだか誇らしい気持ちになったものだった。
1998年の夏にはコービーを初めて生で見る機会に恵まれた。当時アディダスと契約していたコービーの初来日イベントが東京・台場で開催されたのだ。このイベントの最中、どさくさに紛れてコービーとハイタッチしたことを覚えている。とても興奮した。一方で「俺よりひとつ年下なんだよな…」と後で思い返して、苦笑いした。
次にコービーを生で見たのは2003年のNBAオールスターだった。当時、コービーはすでにシャキール・オニールとともにレイカーズで3連覇を達成し、次代を担う若手スーパースターとしての地位をゆるぎないものにしていた。大学を卒業し、バスケットボール専門誌の駆け出し編集者になっていた僕は、初めての海外取材で開催地のアトランタに行った。
このオールスターゲームで、コービーは有終の美を飾るはずだったイースト率いるマイケル・ジョーダンの劇的な逆転ショットのあと、ウェストを逆転勝利に導くプレイを見せた。周囲にはコービーのことを「空気の読めないヤツ」と言う人もいた。余興であるオールスターゲームでも手を抜かず、勝負にこだわるコービーの姿勢は、今でこそ美徳とされているが、当時はあまり理解されなかった。
3連覇のあと、コービーとレイカーズは数年間、勝てない時期が続いた。自己中心的でチームメイトからも孤立しているコービーはレイカーズを優勝に導くことはできない――。そんな声は少なくなかった。すでにリーグ屈指のスター選手に成長していたにもかかわらず、コービーに批判的な人は不思議なほど多かった。言うなれば彼はアンチヒーローだった。
そんなコービーを、僕は密かに応援していた。大ファンというほどではなかったが、実際に会ったことのあるNBA選手というのはやはり特別な存在だった。この仕事を始める前の経験だったから、特に強く印象に残っているというところもあると思う。だから、独りよがりで協調性のない選手だと叩かれながらも、いつも懸命に戦うコービーに同情していた。むしろ、叩かれる彼を見て不憫に思いながら、そういう人たちを見返してほしい、という気持ちが強かった。今思えば、友人を見るような目でコービーを見ていたのだと思う。
アンチヒーローから真のヒーローへ
2006年の9月には、日本で行なわれたFIBAバスケットボール世界選手権の直後にコービーがナイキのツアーで再び来日した。新シーズンを前に背番号を24に変更することが決まっていたコービーは、代々木公園に集まった大勢のファンの前で、その理由を「1日は24時間、ショットクロックは24秒、(NBAの)ハーフは24分。これらすべての瞬間を自分のものにしたいから」と説明した。コービーらしい理由だと思った。それまで8番を背負っていたコービーは当時、何かを変えたいと思っていたのだろう。実際、この背番号変更は“やんちゃなコービー”から“大人のコービー”に変貌する契機になった。
日本では、僕の世代は「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)などと呼ばれ、いわゆるバブル期後に思春期を迎えた就職氷河期世代だ。そんな時代を生きてきたからなのか、僕が勝手に感じているだけなのかわからないが、いくら叩かれても出続ける杭のようなコービーの反骨精神に、ずっと憧れのような感情を抱いていた。逆境に屈せず、努力し続ける姿勢から多くの刺激を受けていた。
忘れられないのは、2009年に通算4度目の、シャック離脱後初めての優勝を果たしたときの嬉しそうなコービーの表情だ。勝利を確信して喜びを抑えきれない様子だった彼は、試合終了の瞬間に拳を振り上げながら何度も飛び上がって喜んだ。彼のそれまでの努力や苦労が報われたことが、自分のことのように嬉しかった。
その後、コービーはアンチヒーローから真のヒーローになった。2010年には宿敵ボストン・セルティックスを破ってリーグ2連覇を果たした。2011年のオールスターでは史上最多に並ぶ4度目のMVPに輝いた。2013年にはアキレス腱を断裂してからわずか8か月で復活し、その不屈の闘志を見せつけた。若かりし頃に多くのアンチを生み出した「空気を読まない男」は、最後には誰もが尊敬するバスケットボール選手となり、2016年、20年に及んだ現役生活に終止符を打った。
引退翌年には背番号8と24がレイカーズの永久欠番になった。2018年には短編アニメ映画『Dear Basketball』でアカデミー賞を受賞し、スポーツを通じた人間形成を目的とする施設『マンバ・スポーツ・アカデミー』も設立した。私生活では4人の娘の父親として第二の人生を楽しんでいる姿がメディアを通じて伝えられた。引退後も精力的に活動していたコービーは、現役時代と異なる領域においても「マンバ・メンタリティ」を発揮し、人々にインスピレーションを与え続けていた。
そんな矢先に起きた悲劇だった。
バスケットボール選手以上の存在
2016年2月、現役最後のオールスターでコービーは娘のジアンナさんをひざに乗せ、メディアの前で取材に応じた。そのときのやりとりで印象に残っている言葉がある。「夢を叶えるために重要なことは何か?」と聞かれたコービーの返答だ。
「夢は実現可能だと信じなければいけない。言うは易し、行なうは難しだ。誰にでも夢はあるだろうからね。けれど、それを実現させるためのプロセスを踏めば、障害にぶつかる。不運にも、プレッシャーや不安、責任といったいろいろなことが影響して、夢をあきらめてしまう人もいるだろう。それと共にイマジネーション(想像力)も失ってしまうかもしれない。(でも)僕が思うに、それを絶対に失ってはいけない。持ち続けないといけないんだ。それが最も重要なことだ。僕は自分の夢を絶対にあきらめなかった」。
こうしてコービーの思い出を改めて振り返ってみると、類まれなアスリートとしての姿からはもちろん、彼の生き様全体から、人生における大切なことをたくさん学んでいたのだと気づかされる。仕事に取り組む姿勢、信念を貫く強い意思、家族への感謝と愛情、逆境に立ち向かう勇気、夢を叶えるための努力、犠牲、情熱――。同世代の友人のようなスーパースターは、いつしかバスケットボール選手という枠を超える、もっと大きな存在になっていたのだ。
もう二度とコービーを取材することも、感謝を伝えることもできないのが残念でならないが、最後にこの場を借りて哀悼の意を表したいと思う。
現実を受け入れるのにはまだ時間がかかりそうですが、あなたが生涯を通じて教えてくれたことすべてに感謝します。ありがとう、コービー。いつか天国でまたハイタッチできる日まで。