高校のようなロッカールーム
レイ・アレンの自伝の中盤、2002年に自身のミルウォーキー・バックスでのキャリアが終わりとともにささやかれていた陰口が暴かれるなか、アレンはこの本の大きなテーマとも言える文章を残している。NBAの日常を知らない人にとっては驚きの内容かもしれない。
「ロッカールームはときに高校のようなのだ。派閥が作られ、ほとんどが真実ではない噂を誰かが広めていく」。
2週間後に発売されるアレン(共著:マイケル・アーカッシュ)の『From the Outside: My Journey through Life and the Game I Love』は、アレンがいかにバスケットボールで活躍するようになっていったかを物語る自伝だ。NBAファンが最も興味を惹かれるのは、ボストン・セルティックスを筆頭に彼が経験してきた数々のチーム内不和の話だろう。引退した今でも、彼はその高校レベルの派閥やゴシップに囲まれているのだ。
つい先月も、セルティックスがTDガーデンでポール・ピアースの永久欠番化セレモニーを行なっているなか、アレンは出席せずにゴルフをしている写真をSNSに投稿している。“ビッグスリー”の一員として、ピアースとケビン・ガーネットとともにセルティックスを優勝に導いてから10年が経った。彼が2012年にマイアミ・ヒートに移籍したことで生まれたガーネット、そしてポイントガードのラジョン・ロンドとの不和がいまだに健在であることをアレンは気にかけているのだ。
アレンが言うには、どちらも強烈なほどに熱心な選手である彼とガーネットは、いずれ衝突するであろう兆候はあったようだ。2007年のプレシーズンでイタリアのローマに行った際、アレンは自分のロッカーの前でドリブルをしていた。キャリアを通して試合前に常にやってきた準備運動だ。そのドリブルが気にくわなかったガーネットは「ダメだ、それはやるな」とアレンに伝えた。
チームメイトが注目するなか、アレンは「指図は受けない」と返答したと語っている。
「あんたはあんたのことをやれ、僕は僕のことをやる」。
アレンが書いている通り「大人2人がこれほど幼稚な争いができるのか?」という状態だ。そしてシーズン前に、ガーネットとアレンがボストンのステーキハウスで夕食を共にしたときも同様だった。1990年代にティーンエイジャーとしてプレイした経験や、弱小チームでプレイするという共通の過去で盛り上がった食事後、アレンがウェイトレスに勘定をお願いするとガーネットは「ダメだ」と口を挟んだのだ。
「自分のほうが彼よりチップの気前がいいから、勘定は俺に渡しな」とガーネットはウェイトレスに伝えたという。2人が夕食を一緒に食べるのは初めてのことで、ガーネットがどれほどチップを払うかなど知るはずもなかったとアレンは指摘している。アレンは「彼と言い争いする意味がないんだ」と綴っている。
「彼は自分のほうが僕より上だと感じる必要があったようだ、こんな些細なことでさえもね」。
それもあって、アレンがセルティックスからヒートに移籍して初めての対戦で、ガーネットが握手するのを拒んだことも決して驚きではなかった。
「KGは自分の祖母を相手にしても、移籍したらきっと喧嘩するだろうね」とアレンは話している。
それでも、アレンは今までのチームメイトの中から「1人だけ選ばないといけないとすればケビン・ガーネットを選ぶ。ダントツでね」とも綴っている。
弟のようにかわいがっていたロンド
その真逆にいるのがロンドだ。アレンは初期の頃の関係性を若い選手とその良き先輩だったと説明している。
「彼以上に親しい選手はいなかったくらいだよ。まるで弟かのようだった」。
しかしその関係性は、2008年にセルティックスが優勝してから崩れていった。時間が経った今でも、アレンはなぜロンドとの関係性が悪化してしまったのか説明ができないようだった。
2011年には、その関係性はもはやズタズタになっていた。2009年に、セルティックスのフロントはロンドと確執があり、アレンとロンドをフェニックスにトレードし、アマレ・スタウダマイヤーを獲得するという話が持ち上がっていた。アレンは当時ロンドにトレードを考え直してもらうようダニー・エインジ球団社長と話し合うことを提言した。
2010-11シーズンにも問題があった。チームミーティング中、ロンドはチームメイトに「2008年に俺はみんなを優勝に導いた」と発言したのだ。
アレンは「チームは全員一斉に『お前が何したって?』と返事した」と書いている。ロンドはチームメイト全員が自分のことを問題だと思っていると主張し、アレンが「誰もそんなこと思っていないよ」と伝えると、ロンドは「あんたもじゃないか。あんたも俺たちがトレードされる原因が俺だと言っていた」と反論したのだ。
もしかしたらそこが問題の発端だったのかもしれない。本のなかでは、アレンはなぜロンドと完全に敵対してしまったのかはわかっていない様子だった。
2011-12シーズン前のロックアウト中、ロンドを当時ニューオーリンズ・ペリカンズのクリス・ポールとトレードするという話が持ち上がっていたのだが、最終的にトレードは成立しなかった。当時の報道によると、ポールが翌夏にフリーエージェントになった際にセルティックスと契約すると保証しなかったことがその原因だったとされている。
しかしアレンによると、トレードが成立しなかったのには別の理由があったのだという。
「ドック(リバースHC)が相手のモンティ・ウィリアムズHC相手にそんな仕打ちはできないと判断したのだ。ドックはオーランド・マジックでモンティをコーチしていたこともあって、師弟関係にあったんだ」。
そのトレードが消滅したのち、リバースHCは逆にロンドを中心にオフェンスを組み立てる道を選んだことにアレンはショックを受けたと綴っている。アレンはそのシーズンを「契約最終年、これまでで一番ストレスの多いシーズンだった。ロンドが僕にボールを回してくれないところまでいっていたんだ」と説明している。
そしてリバースHCはアレンをベンチ下げ、ロンドとともにエイブリー・ブラッドリーを先発起用するようになった。そしてエインジ球団社長はアレンをメンフィス・グリズリーズのOJ・メイヨとトレードする方向で動き、アレンはトレードされるとエインジ本人から連絡されるほど成立間近だったとのことだ。しかしトレードは期限直前にその話は立ち消えた。
シーズン終盤、ロンドはアレンに対して「この夏あんたを追い出してやる」と暴言を吐くまでになっていた。そして実際アレンはその夏チームを去った。そしてそれはガーネットとの関係に大きな溝を作ることとなった。アレンは昨年の夏にピアースとは和解しているが、ロンドとの和解はもう無理なのかもしれない。
大きな不和がありながらもアレンは2011-12シーズン後も「ボストンに残る予定だった」と説明している。しかしジェイソン・テリーを新たに契約していたセルティックスは、アレンが求める3年2400万ドルという契約には及ばない、2年1200万ドルという契約を提案したのだ。全てを考慮した上で、アレンは他チームと契約するという結論に至ったという。
最終的に、アレンはさらに金額の少ない2年600万ドルでヒートと契約している。ヒートに一番優勝の可能性を感じたのだ。
アレンのセルティックス在籍時、そして決別の話はとても興味深い。さらにバックス時代のジョージ・カールHCとの不仲、シアトル・スーパーソニックス時代、ボストンへのトレード、ヒートでの優勝など、殿堂入り確実な彼のキャリアは話が尽きない。
原文:Ray Allen's new book sheds light on Celtics drama, intense battles with Rajon Rondo by Sporting News / Sean Deveney(抄訳)