マヌ・ジノビリがNBAに遺したレガシー

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サンアントニオ・スパーズに全体57位指名されてから最初の数年、マヌ・ジノビリはハイレベルなイタリアリーグでキンダー・ボローニャを2000-01シーズンのユーロリーグ優勝に導き、MVPに選ばれたアルゼンチン選手との触れ込みで現れた選手だった。

もちろん、当時はYouTubeが広まる前のことだ。我々の多くが、辛らつで懐疑的なGMたちや、欧州事情に精通していた当時のデトロイト・ピストンズのスカウト、トニー・ロンゾーニから、国際的な有望選手の情報を得ていた。

すべてが変わったのが、2002年の夏だ。FIBAがインディアナポリスでワールドカップを開催し、世界を代表するトップクラスの16チームを招いた。NBAなどで国際的に改革を起こし得る選手たちが大勢集まった。

だが、活躍を続けたのはジノビリだった。ベネズエラ、ロシア、ニュージーランドとの最初の3試合で、19得点、21得点、24得点をマーク。1試合平均14.1得点は26位で、1位ダーク・ノビツキーや3位ヤオ・ミン、6位パウ・ガソルらに及ばなかった、そのプレイスタイルが彼を独特な存在とした。

最も鮮やかに目立った試合の一つが、8得点、8アシストと最も静かだった中国戦だ。そこでジノビリがしたことは、私が初めて目にしたものだった。

彼は一つの動きで、方向を変え、ドリブルを止め、レーンの中心にたどり着いた。だが、リプレイで見ると、2歩しか動いていない。ルール違反のようだったが、完璧にクリーンだった。私が初めてユーロステップを見た瞬間だ。アルゼンチン人ガードが、それを完璧にこなしたのである。

中国を24点差で下したアルゼンチンは、その2日後にアメリカも沈め、その連勝を58で止めた。ジノビリが15得点をあげたこの試合は、アルゼンチンの「黄金世代」のハイライトだ。決勝ではユーゴスラビアに敗れ、銀メダルに終わった。足首を負傷していたジノビリは、12分間出場で無得点だった。

アメリカにとっては、チームUSAの衰退の始まりとなった。それが、この大会の見出しだ。だが、私にとって、ジノビリが中国戦で見せたあの動きは、それに次ぐ見出しだった。それまでの彼はゴーストだったが、あのボディコントロールが、ボールとバランスの双方をコントロールするプレイが、彼を非常にリアルな存在としたのだ。

大会後、ジノビリはスパーズでも優勝に貢献した。NBAでの通算16シーズンで、4回の優勝を経験した。そのジノビリが、引退を発表した。

2002年にNBAにやって来たジノビリは、ユーロステップという卓越した技をもたらした。それがNBAでずっと残る彼のレガシーだ。

以来、ハードにドライブするガードはリーグを制していった。おそらく、その筆頭が昨季のMVPであるジェームズ・ハーデンだ。

だが、少なくとも私にとって、それは16年前のヤオ・ミンに対するジノビリのプレイから始まったことだった。

原文: Manu Ginobili's legacy defined by his movements as much as his moments by Sporting News(抄訳)​


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