全盛期のビンス・カーターはどれほどすごい選手だったのか?

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全盛期のビンス・カーターは、どれほど優れた選手だったのだろうか?

カナダのスポーツ史上最も影響力のある存在、オールスター選出8回、オリンピック金メダリスト、NBA史上最高のダンカー、そしてNBA記録となった現役22年という実績を考えても、バスケットボール殿堂入りは間違いない。

しかし、その影響力やインパクトを除いた場合、彼はどれだけ優れた選手だったのだろうか?

これは、カーターが引退を表明してから2週間、私がずっと自問してきたことだ。

リーグ史上最も刺激的でエキサイティングな選手の一人であり、盛り上げ方を心得ているエンターテイナーとも言える。人間離れした能力を表す“ハーフマン・ハーフアメイジング”(Half-Man, Half-Amazing)の愛称でも呼ばれた彼は、NBAの歴史でも名だたるスター選手の中に含まれる。

その反面、カーターは一度も優勝に縁がなかった。全盛期にあったトロント・ラプターズ、ニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)時代にはカンファレンス・セミファイナルの壁を超えられず、カンファレンス・ファイナルに進出したのは全盛期を過ぎたオーランド・マジックに所属した2010年のみだった。

もしかすると、カーターほど全盛期の実力を推し量るのが難しいスター選手はいないかもしれない。

マイケル・ジョーダンが2度目の引退を発表した1999年、ロックアウトにより短縮された1998-99シーズンがルーキーイヤーだったカーターは、エネルギッシュでバネのあるプレイでジョーダンを失ったNBAファンを魅了した。ラプターズにはシャキール・オニール級に注目を分かち合わなければならないチームメイトはおらず、バンクーバー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)は低迷を続けていたこともあり、カナダが誇る真のスターと呼べたのは、カーターのみだった。創設されたばかりのラプターズという環境もプラスに働いた。ライバルと呼べるようなチームもなく、さほどプレッシャーがかからない環境だったからこそ、残る29チームのカジュアルなファンも“Vinsanity”と呼ばれた社会現象を受け入れられた。

キャリア最初の3年間が、彼のキャリアを形作ったと言ってもいいだろう。短縮されたシーズンの新人王を決める投票では118票中113票を獲得して同賞に輝き、2年目のシーズンが終わる前にはオールスターファン投票で最多票を獲得。ダンクコンテストで歴代最高と呼ばれるパフォーマンスを披露し、ラプターズを球団史上初のプレイオフに導いた。そして、アメリカ代表の金メダル獲得に貢献した2000年のシドニー・オリンピックでは、身長218cmのフレデリック・ワイス超えのダンクを決めて見せた。

カーターは、超の付くスターダムに乗るために必要だった項目を全て埋め尽くしていった。

2000-01シーズンも平均27.6得点の大活躍で、オールNBAセカンドチームに選出され、オフェンシブ・ボックス・プラスマイナスでリーグ最多の数字を残した。過去シーズンのトップオフェンシブ・ボックス・プラスマイナスを記録した選手の大半が殿堂入りを果たしていることを考えれば、これがどれほどのことか理解できるだろう。

若かりし頃のカーターが、ダンクだけの選手ではなかったことの証明でもある。キャリア晩年になってアウトサイドシュートを打てるようになったと言われるカーターだが、オールNBAチームに選出された2000年と01年には、達成するのが難しいとされる年間3ポイントショット成功率40%超えを果たしている。それを平均25得点以上を記録して2回以上成し遂げた選手は、カーター、ラリー・バード、デイル・エリスしかいない。

そしてカーターは、文字通り一人でラプターズをプレイオフに導いた。

1999-00シーズンのラプターズで、100ポゼッションあたりの出場時間帯のチームの得失点差を示す値で最多の数字を残したのはカーターで、+17.5。同年のチーム2位は+2.0だったチャールズ・オークリーだった。これはまだプロ入り2年目だった彼が、どれほど偉大な選手になろうとしていたのかを物語っている。

しかし、その道をそのまま進めたとは言い難い。

1980年以降、NBA3年目までにオールNBAチームに2回以上選出された選手は、カーターを含めて15人しかいない。ジョエル・エンビードが今後も選出されると想定すると、その後一度もオールNBAチームに選出されなかったのはカーターのみなのだ。そしてけがでキャリアが大きく変わってしまったペニー・ハーダウェイを除くと、カーター以外全ての選手が5回以上オールNBAチームに選出されている(エンビードは26歳でまだ全盛期真っ只中なので除外)。

オールNBAチーム選出回数

選手名 最初の3シーズン その後 合計
レブロン・ジェームズ 2 13 15
ティム・ダンカン 3 12 15
シャキール・オニール 2 12 14
アキーム・オラジュワン 2 10 12
チャールズ・バークリー 2 9 11
マイケル・ジョーダン 2 9 11
ラリー・バード 3 7 10
デビッド・ロビンソン 3 7 10
ドウェイン・ウェイド 2 6 8
ブレイク・グリフィン 2 3 5
ケビン・ジョンソン 2 3 5
アイザイア・トーマス 2 3 5
ペニー・ハーダウェイ 2 1 3
ビンス・カーター 2 0 2
ジョエル・エンビード 2 0 2

カーターは、引退までに8度オールスターに選出されている。だが、プレイでの評価と同時に、人気というファクターで選出されたと言っていい。

8回中6回はスターターに選出されたが、オールスターに相応しい活躍ができなかったシーズンも、ファン投票で多くの票を集めた。

カーターが最後にオールNBAチームに選ばれた2001年以降の6シーズンで毎年オールスターに選出されたのは、カーターを含めて9人しかいない。残る8名は2000年代を代表する選手たちばかりで、コービー・ブライアント、ティム・ダンカン、シャキール・オニール、アレン・アイバーソン、ケビン・ガーネット、トレイシー・マグレディ、ダーク・ノビツキー、そしてジャーメイン・オニールだ。

2002-03シーズンは、けがの影響で開幕から数か月欠場し、32試合を欠場した。2003年1月23日(日本時間24日)にカーターを含むオールスターゲームのスターターが発表された時点で、彼はわずか10試合にしか出場していなかった。平均得点はイースト17位で、得点、リバウンド、アシストの合計値では同24位だった。

翌シーズンもキャリア4度目の最多票を獲得して選出され、当時の最多票獲得回数としては歴代1位のマイケル・ジョーダンに次いで、ジュリアス・アービングと並び同2位だった。2003年ほどではなかったにせよ、スターターが発表された時点での1試合平均得点、リバウンド、アシストを合わせた個人成績はイースト12位。チームの勝利への貢献度を表すウィン・シェアは、オールスターに選出された24人中23位だった。彼よりも高いウィン・シェアを記録しながらもオールスターに選ばれなかったイーストの47選手には、チャウンシー・ビラップス、リチャード・ハミルトン、リチャード・ジェファーソン、ラマー・オドム、そして当時ルーキーだったレブロン・ジェームズらも含まれていた。

2004-05シーズンのカーターは、無気力、無関心で、プレイも創造性に欠け、淡々とやっているだけだった。そしてラプターズで20試合に出場後、ネッツにトレードされた。

ラプターズで最後のシーズンは平均15.9得点、フィールドゴール成功率41.1%、3.3リバウンド、3.1アシストだったのに対して、ネッツに移籍後は平均27.5得点、FG成功率46.2%、5.9リバウンド、4.7アシストと別人のような活躍だった。

Vince Carter
Illustrated by Dai Tamura (www.NBA.com/Vince)

全盛期にポストシーズンで印象に残るプレイをしなかったわけではない。2001年にはフィラデルフィア・76ersとのカンファレンス・セミファイナルでアレン・アイバーソンと激闘を演じ、2006年のプレイオフでは目覚ましい活躍だった。カーターはボックススコアに反映されない部分でも結果を出しており、キャリア16年目まではカーターが出場している時間帯のほうがチームの数字が上昇していた。

“Vinsanity”は、2部で構成された物語と捉えられることが多いが、実際には3部で構成されていると言えるだろう。

トップ10の実力を誇り、歴史に残る選手の仲間入りを果たすと思われた“ハーフマン・ハーフアメイジング”時代。

全盛期と比べて実力が落ちたトップ25ほどの“ハーフマン・ハーフオールスター当落線上”時代。

そして、模範的なベテランとロッカールームのリーダーを兼任し、時代とともに進化しながら誰よりも長く現役を続けた“ハーフマン・ハーフ堅実”時代。

ここでもう一度だけ自問してみたい。ビンス・カーターという選手は、どれほど優れていたのだろうか?

その答えを導き出すのは、簡単ではない。

原文:Just how good was Vince Carter in his prime? by Micah Adams/NBA Canada(抄訳)


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