史上最多記録が生まれた試合に立っていたかつてのスーパースター
1986年4月20日、ボストン・ガーデンで行なわれたシカゴ・ブルズとボストン・セルティックスによるプレイオフ1回戦の第2戦で、マイケル・ジョーダンは63得点という歴史的な活躍を見せ、世界を驚愕させた。ブルズの敗戦とはなったが、MJにとってはNBAで初めて掴んだビッグモーメントとなったのだ。
強豪セルティックスを相手に若きジョーダンがNBAプレイオフ史上最多記録となる得点を叩き出すという輝かしい活躍を見せるなか、コートにはもうひとり、かつてその得点力を称えられた選手が立っていた。
ラリー・バードでも、ロバート・パリッシュでも、ケビン・マクヘイルでも、ビル・ウォルトンのことでもない。また、ブルズの二番手の実力者だったオーランド・ウーリッジのことでもない。
ジョージ・ガービンだ。『アイスマン』の異名で知られたかつてのスター選手は、1985-86シーズンにジョーダンのチームメイトだったのである。
1972年にABA(American Basketball Association)のバージニア・スクワイアーズでジュリアス・アービングのチームメイトとしてキャリアを開始したガービンは、1974年からはサンアントニオ・スパーズの顔として活躍した。1976年にABAはNBAと合併している。
スパーズでの12シーズン(※1974~1976年はABA、1976~1985年はNBA)で、ガービンはリーグの歴代トップスコアラーのひとりへと成長し、NBAの得点王を4度獲得。スパーズで出場した899試合で1試合平均26.3得点を記録した。
ガービンの1試合最多得点試合は、1978年4月9日に自身初の得点王を確定させた63得点の活躍だ。
しかし、1985年10月、ガービンの状況に変化が訪れる。33歳のガードとして活躍していたガービンは、1984-85シーズンに平均21.2得点を記録し、初めて衰えを感じさせ始めた。それでも、スパーズの決断には多くが驚かされた。1985-86シーズン開幕から数日、スパーズはデイブ・グリーンウッドとの交換でガービンをブルズにトレードしたのだ。
ブルズの方針は明らかだった。キャリア2年目のジョーダンにとって、ガービンは良いメンターになれるだろうと考えたのだ。しかし、ジョーダンとガービンの関係は想定していたものにはならなかった。
ガービンは『Grantland』のビル・シモンズとのインタビューで「僕は年老いていて、引退も近かったということもあり、マイケルよりもドック(ジュリアス・アービング)のほうが僕のことを理解してくれていただろう」と語っている。
「マイケルはリーグに入りたてだったこともあり、自分の存在感を示そうとしていた。それだけに、私のことをちょっと違った目で見ていたのだろうと思う。いつも彼には『old man』(老人)と呼ばれていたから、『お前もいずれそうなるよ』と伝えていたよ」。
ジョーダンが2シーズン目を足のけがでほとんど欠場したこともあって、元スパーズのガービンはレギュラーシーズン82試合中75試合に先発し、平均16.2得点を記録した。しかし、ジョーダンが復帰してプレイオフが始まると、ガービンはローテーションから落とされてしまう。セルティックスとの第1戦ではわずか6分、第2戦では5分の出場時間にとどまり、その後は一度も出場することはなかった。
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ミシガン州デトロイト出身のガービンは「なんで自分があれだけ長期にわたってプレイできたのかわからない」と言う。
「彼が63得点する間、何度かボールをパスさせてもらったね」。
記録を紐解くと、ガービンの現役最後の試合は1986年4月20日となっている。これはジョーダンがプレイオフの史上最多得点記録(63)を達成した試合だ。
多くのファンの記憶に残っているスター選手にしては、静かな引退試合となった。
原文: The Last Dance: George Gervin - Michael Jordan's forgotten teammate by Juan Estevez/NBA Argentina