1995年、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンが体育館でトレーニングをしている姿を覗いている見物人のなかに、ケビン・ガーネットの姿があった。当時シカゴのウェストサイドにあるファラガット・アカデミーの高校最終学年だったガーネットは、シカゴだけでなく全米的にも高校バスケシーンを席巻していた(『USA Today』のプレイヤー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた)。
しかし、そうは言ってもまだ偉大な選手の練習を覗き見するような、ただの高校生だった。しかし、シカゴ・ブルズのあの有名なコンビが、この背の高い痩せっぽちの選手に興味を持ち、警備員が彼をコートに呼んだとき、全てが変わった。
10月にリリースされる『Showtime』のドキュメンタリーで、ガーネットは「ピッペンが僕に対して、ここにいるには若すぎるって言っていたのを覚えている」と語っている。
しかし、何本かの強烈なダンク、ピッペンに対するトラッシュトークの応酬を何度かやり終えたあと、その対戦を楽しんで見ていた高いピッチで喋る男性の声がガーネットの耳に届いた。彼もまたシカゴのレジェンドであり、殿堂入りを果たしている元デトロイト・ピストンズのスター選手、アイザイア・トーマスだ。彼が発したそのあとの言葉は、ガーネットだけでなく、将来的にNBA入りする多くの選手の人生を変えた。
「『君がスコッティ・ピッペンと対戦しているのを見た』」とトーマスの言葉をガーネットは振り返った。
「『今からでもリーグでプレイできるんじゃないか』」。
それまで、ガーネットは高校から直接NBA入りするという考えを持ったことはなかった。しかしその数か月後、1995年のNBAドラフトでミネソタ・ティンバーウルブズから全体5位指名を受け、それを実現させたのだ。
ドキュメンタリーについて取材しにきていた少数の取材陣に対して、ガーネットは「(リーグ入りするという)考えとプロセスは、アイザイアが提示してくれたんだ」と説明した。
同ドキュメンタリーは、新たに殿堂入りファイナリストに選出された15度のオールスター出場経験を持つガーネットの25年間にわたるキャリア、選手やリーグ自体を変えた彼の役割をクロースアップしている。
「とてもクールなアイディアだと思ったんだ」とガーネットは言う。
「いつもなら僕はあまり自分のことを話さない。でも、もし質問されれば、本当に全てに対して何かしら話を語れると思うんだ」。
彼はすでに『Showtime』が製作しているボクシングのドキュメンタリーや、アレン・アイバーソン、コービー・ブライアント、レブロン・ジェームズ、ロン・アーテストのドキュメンタリーのファンだった。ある国際便で偶然、同局のスポーツイベント部門代表のスティーブン・エスピノーサと出会い、今回のプロジェクトが始まった。
「どうやってここまでやってきたのか教えるよ。まずは1995年まで遡ろう」。
コービー・ブライアント、ティム・ダンカンと共に殿堂入りが予想されるガーネットは、ドキュメンタリーについて語ったのちに、自身の近況について話した。
セルティックスが僕の背番号5を永久欠番にしてくれることには、とても感謝している
ーーボストン・セルティックスは来季、あなたの背番号を永久欠番とすることを発表しました。21シーズンのキャリアの3分の2を過ごしたミネソタ・ティンバーウルブズが先にそれをやらないことに、何か意見はありますか?
ミニー(ミネソタの愛称)では素晴らしい日々を過ごした。しかしマネージメントのことになると、比較にならない。ミニーはあるやり方をする。一方でボストンは、バスケットボールの文化が根付いており、彼らにも彼らのやり方がある。どちらもリスペクトするよ。他人の持ち物に対して、どうこうしろとは言えない(ガーネットはウルブズのグレン・テイラー・オーナーが彼をマイノリティ・オーナーとして迎えるという約束を破ったと感じている)。でもとにかく、セルティックスが僕の背番号5を永久欠番にしてくれることには、とても感謝している。
ーーアダム・サンドラー主演の映画『Uncut Gems』(邦題『アンカット・ダイヤモンド』)で大役を引き受けることに至った経緯を教えてください。
最初はチョイ役として出演するっていう話だったんだ。でもいつの間にか2日が2週間になって、気づいたら目の前にはちゃんとした台本があった。アダムとのちゃんとした会話を覚えないといけないことになっていた。楽しかったよ。役者になろうとは思っていないけど、映画で敵役を探している人がいれば…(笑)。
映画撮影、男優、女優、映画業界全体をリスペクトしているよ。1日16時間労働を当然のようにやっている。ミスは許されない。NBAの試合ととても似ている。しっかりと自分の力を出し切らないといけない。もし失敗したら、それは大問題だ。
パット・ライリーが「すごいな、なんだこいつは」って言ったのが聞こえたよ
ーードキュメンタリーでは、シカゴでのワークアウトについて語っています。懐疑的なNBA関係者の前で、モーゼス・マローンとビル・ウィロウビー以来となる20年以上ぶりの高校生ルーキーとしてのワークアウトでした。どんな気分でしたか?
通常ワークアウトするときは、飛行機に乗って相手を訪れるものなんだ。でも僕はまだ学校があったから、どこにも行くことができなかった。だからシカゴでワークアウトするしかなかったんだ。多くのGMやオーナーが、面倒くさそうにしているのがわかったよ。
何かに緊張したとすれば、やっぱり、これまでやったことのないようなことだったからかな。プロの前でワークアウトしたことなんて今まで経験が無かった。(マイアミの球団社長である)パット・ライリーが「すごいな、なんだこいつは」って言ったのが聞こえたよ。それを聞いたときに、全てを忘れたね。緊張もなくなって、積極的にアタックし続けた。
ーー育ちはサウスカロライナ州ですが、高校最終学年のときにファラガット・アカデミーに転校しました。その経験はあなたをどう形成しましたか?
ファラガットに転校したことで、競争相手が強くなったのが良かった。シカゴの街は競争率がとても高くて、常にチャンスがあった。マッチアップ相手に不足はなく、D1(NCAAディビジョン1の大学)にしろ何にしろ、次のレベルに行くための経験値を稼ぐのに適していた。
全ての対戦に勝利したわけではないが、競争し続けた。この街の誰に聞いても、僕が常にバスケしていたと話すだろう。ウェストサイドだけでなく、ノースサイドやサウスサイドでもプレイした。許可を得ないとプレイできないようなサウスサイドのコートや、本来なら行ってはいけないような場所でもプレイしていた。毎週土曜日は、カーバー高校、シミオン高校、キング高校の子たちとプレイをしていた。そうやってこの街では自分の評判を上げていくんだ。デポール大学の練習が終われば、彼らとも対戦しに行っていた。
全てをダンクで叩き込む。周りからは若き獅子として見られたかったんだ
ーーシカゴ・ブルズでプレイしそうになったことはありますか? ブルズがトップフリーエージェントをなかなか獲得できない理由は何だと思いますか?
ブルズと契約しそうになったことは、一度も無い。(長い沈黙の後)『なんで』という明確なものはないかな。機会がなかった。そしてジェリー(クラウス:長期にわたってブルズのGMを務めた)のジョーダンに対する扱いを見てきた。全ての選手は、あれを頭の片隅に置いているんじゃないかな。「最も偉大な選手にあんな扱いをするなら…」ってね。ブルズを仕切っているジェリー・ラインズドルフ会長の前では、最も偉大な選手でさえもオーナーシップに加わることができなかった。ここに戻ってくることができなかったんだ。選手たちはそういうのを見ているし、忘れないんだ。
でも、もしかしたらもう時代は変わったのかもしれない。わからないよ。ザック・ラビーンは今あそこで素晴らしい活躍をしているね。今の主力を今後も維持できるのかに注目だ。
ーールーキーとして、「ここでやっていける」と感じた瞬間はありましたか?
約45試合ほどかかったかな。フリップ(ソーンダース・ヘッドコーチ)が僕を先発起用すると決めたんだ。当時ケビン・マクヘイル(セルティックスのレジェンドで、当時ウルブズのバスケットボール運営部門代表)と練習していたムーブをやり切るには、僕はまだ力が弱すぎた。ゴールに背を向けてプレイできず、いつも前を向いてプレイしなければならなかった。マック(マクヘイル)はすごく肩幅があって、それがないとできないようなムーブを教えてくるんだ。できないと「ちゃんとやれ!」って怒鳴られてたね。
絶望して家に帰っていて、ある日「これじゃだめだ」と考えた。なんとかフィットできるように、しっかりとプロセスを踏んでいったんだ。2、3個、自信を持ってできるムーブを身につけて、自分より小さい相手にそれを実行した。自分より大きい相手に対しては、スピードで対抗する術を覚えた。力の強さ、跳躍力など、しっかりと組み合わせてプレイできるようになったことで、自信がついていった。
初めて20得点を記録した試合は、全てそのふたつのムーブと、ハッスルプレイのおかげだ。身体があまり仕上がっていない相手を見つけては、自分の若さを利用して出し抜いていった。そして全てをダンクで叩き込む。レイアップなんてしない。相手の頭に叩きつける、そして相手にもそれをわからせる。周りからは若き獅子として見られたかったんだ。『彼、本当に高校から入ってきたの?』って思わせたかった。僕のキャリア序盤の映像を見ると、まるで怒ってるかのようにプレイしているのがわかると思う。あれはコーヒーの影響なんだ。コーヒーを飲むと野獣のようになっていたんだ。
ーーキャリア終盤、あなたはコーチには絶対にならず、公からもフェイドアウトしたいと言ってました。なぜそうなっていないのですか?
やろうとしたんだけどね。スティーブ(エスピノーサ)から連絡が来たんだよ。どうしようもないよね? ゆっくりしようとは思っているんだけどね。『Turner』からも連絡が来たりして、フェイドアウトしようとしても、させてくれないんだ。今はこのドキュメンタリー製作を気に入っているから、とても面白いものを作ろうと思っている。素晴らしいパートナーに囲まれている。全員が同じ方向を向けているね。素晴らしいものを世界中に見せられると思っているよ。
コービーとは間違いなく共存できたと思う
ーー引退して以来、過去の選手や現役選手との関係性に変化はありましたか?
僕より前にプレイしていた選手に対する姿勢は常に変わらない。リスペクトだ。殿堂入り最終候補の発表式で、真っ先に挨拶しにいったのはスペンサー・ヘイウッドだった。みんな知っているかわからないけど、彼は1968年にアーリーエントリーを可能にする判決を勝ち取った初めての選手なんだ。彼のおかげで高校から直接リーグ入りできるようになった。ドワイト(ハワード)やレブロン(ジェームズ)と話すときは、常にバスケットボールの歴史を理解するように勧めている。先人がいなければ、僕らはここにいないわけだからね。
ーーティンバーウルブズからトレードされるとき、ロサンゼルス・レイカーズに行く可能性もあるという報道がありました。何が起きたのですか?
2007年、僕はフェニックス(サンズ)に行く可能性があったんだ。(ゴールデンステイト)ウォリアーズの可能性もあった。もちろんセルティックスもあったし、レイカーズの話もあった。電話でコービー(ブライアント)に連絡しようとしていたんだけど、彼はナイキのツアーか何かでイタリアに行っていたんだ。決断を下す必要があった。スティーブ・ナッシュと会話をしたんだけど、それは酷い内容だった。ポール(ピアース)とは、僕が14、15歳くらいの頃からの友人だった。友人のチャウンシー・ビラップスとタロン・ルーとワークアウトしてるとき、彼らが正直な意見を言ってくれたんだ。「もし勝ちたいのであれば、もし自分が言ってるほどの選手になりたいのであれば、移籍しなければならない。つらい決断をしなければならない」ってね。
そこで初めて「ミニーを去らないといけないのか? まじかよ」って思ったんだ。ミニーは最高だった。去りたくない気持ちでいっぱいだったけど、せざるを得なかったというのが正直なところだ。でもセルティックスには好機があった。あの決断を下して良かったと思っているよ。そういった経験を支えてくれた真の友人がいたことに感謝している。
ーーコービーと共存できたと思いますか?
間違いなくできたよ。僕がとても自分に自信を持っている選手であることは、周知の事実だと思う。でも、僕はロビンにもなれる。本来はバットマンだよ、そこは勘違いしないでほしいけれど、素晴らしいロビンにもなれるんだ。ポール・ピアースのエゴはとても大きく、キャラクターもとても強い。彼はそれで輝くんだ。僕は、自分が彼のチームにやって来たことを理解していたし、僕がそういう考えであることを彼にも知ってもらいたかった。必要なときは、素晴らしいロビンを演じた。でも自分の人生では、僕がアルファであり、僕がキングだ。自分のことは自分でやる。それでも、必要に応じて、違う選手が偉大になる手助けをすることも嫌いじゃない。
(コービーとは)間違いなく共存できたと思う。シャックとプレイできたなら、僕とだってプレイできただろう。僕は誰と出会っても、素晴らしいチームメイトだったというのを誇りに思っている。それは誰に確認してくれてもかまわないよ。
ーーこのドキュメンタリーが10月にリリースされるとき、ほかに注目ポイントはありますか?
2020年という現代から、1995年という時代まで連れていくものだと思ってほしい。音楽、ファッション、スタイルなどもカバーする。今の選手たちがやっているムーブを考えて見てほしい。音楽やダンスは自分の振る舞い方に影響する。誰しもが、自身の持っているビートを持って歩んでいくんだ。それがプレイにもつながっている。ドライブを仕掛けているときも、それが影響するんだ。
今の音楽、リズムは昔と違う。今の選手たちのワークアウトを見ていると、新しい音楽が鳴っている。新しいファッションがある。すべては繋がっているんだ。そこでこの疑問が生まれる。「どうやって今の2020年までやってきたのだろう?」
原文:The Q&A: Kevin Garnett on pre-Draft workouts, nearly playing with Kobe Bryant and post-career moves by Steve Aschburner/NBA.com