コービー・ブライアント40歳に! 彼がNBAに残した40の贈り物

Gilbert McGregor

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コービー、40歳の誕生日おめでとう!

この日は祝うために、コービーがバスケットボール界に残した40の贈り物を振り返ろう。今の世代への影響力や、コート外でのインパクトなど、コービーは実に多くを残しているのだ。

影響力

1) マンバ・メンタリティ

最大の贈り物かもしれないこのマンバ・メンタリティこそが、コービーがコービーたるゆえんだ。コービーのこのアプローチは、バスケ界のみならず、スポーツ界全体に浸透している。

2) デマー・デローザン

デローザンはーのプレイスタイルは明らかにコービーをモデルにしている。カリフォルニア州コンプトン出身のデローザンは、必然的にコービーとロサンゼルス・レイカーズのファンとして育った。地理的な近さと、学生の頃からスター選手になったこともあり、デローザンにはプロになる前からコービーに出会うチャンスが何度か訪れた。

自分にとってコービーは全てであり、彼のおかげでゲームを学ぶ姿勢を持ったと『Sports Illustrated』にも語っているほどだ。

Kobe Bryant

3) カイリー・アービング

アービングはコービーの影響を強く受けたこと明言していることでも有名だ。一緒にシューズでコラボしており、アービングはマンバ・メンタリティに溢れている。2016年にクリーブランド・キャバリアーズで優勝したときも、アービングがまずFaceTimeで連絡をとったひとりコービーがいた。

「コービーから学んだ最大のことは、必ずしも溶け込まなくても良い。目立っても良いということだ」。

4) ツイッター・チャレンジ

引退から1年、コービーは次の世代を代表する選手たちに試練を与えた。

各挑戦者を新たなレベルに引き上げるためのその贈り物は、まさにコービーらしいと言える。ヤニス・アデトクンボデマー・デローザン五輪スプリンターのアリソン・フェリックスラッパーのケンドリック・ラマーアイザイア・トーマスなどがその恩恵を受けた。

5) スニーカー

アディダス時代(1996年から2002年)から、2002-03シーズンのスニーカーフリーエージェントを経て、2003年にナイキと契約したコービーは、スニーカー文化にも大きな影響を与えた。

コービーのシグネチャーモデルは2005年にデビューし、引退後もそれは続いている。アデトクンボ、デローザン、トーマス、デビン・ブッカー、ドリュー・ホリデーなど、実に90人以上のNBA選手が2017-18シーズンにコービーのシューズを履いている。

メディア

6) 「Dear Basketball」

NBAレジェンド。そしてアカデミー受賞者。

2015年に引退を発表する際に綴った詩はショートアニメ化され、2018年に最優秀アニメショート部門でアカデミー賞を受賞。

Kobe Bryant

7) 「Detail」

アドバイスという形で、コービーが次の世代に残した贈り物だ。

『ESPN』と提携したコービーは、自身の眼とずば抜けたバスケIQを使って、リーグ屈指のスター選手を分析する番組を作成した。ジェイソン・テイタムドノバン・ミッチェルトレイ・ヤングなどが分析されたことに感謝の気持ちを述べている。

8) 「Kobe Bryant's Muse」

「もはやそれはドキュメンタリーを超えていた。フィルム上のセラピーだった」。

2015年に『SHOWTIME』で放送された83分間の特別番組で、コービーはイタリアに住んでいた頃から、キャリア終盤のアキレス腱のケガについて多くを語った。

9) 「Kobe: Doin' Work」

2008年のMVPシーズン中、コービーはスパイク・リー監督に試合を丸々ドキュメントする機会を与えた。

84分間の『ESPN films』のドキュメンタリーで、コービーはシーズン終盤に前年覇者であるサンアントニオ・スパーズに勝利した試合についてナレーションを務めている。コービーが毎日試合でやっていること、どのようにやっているのか、なぜやっているのかを見ることができる。特にチームメイトと常にコミュニケーションを取っていることがよく描写されている。

10) Musecage Basketball Network

カイリー・アービングのとても効果的なオフハンドを強調するジングル、ヤニス・アデトクンボをギリシャの半神半人になぞらえたコミックなど、コービーはアートという形を使って『ESPN』のMusecage Basketball Networkでゲームへの情熱を表現した。

老若男女のファンが楽しむ形で作られたショート作品だ。

ベストゲーム

11) 20016年11月22日:ラプターズ相手に81得点

コービー最大の得点パフォーマンスは歴史的なものだった。

81得点はNBA史上2位となる最多得点パフォーマンスで、トロント・ラプターズ相手に18点差の勝利へとコービーはレイカーズを導いた。レイカーズは最大21点差のリードを奪われ、ハーフタイムでは14点差を追う側だった。しかしコービーは後半だけで55得点を叩き出した。後半はひとりでラプターズよりも14得点上回ったのだ。

12) 2005年12月20日:3クォーターで62得点

33分の出場で第3クォーターを終えたコービーは、レイカーズの95得点中なんと62得点獲得。その時点でコービーはひとりでダラス・マーベリックス全体よりも得点していたのだ。決してマブスが弱かったわけではない。同じマブスのチームは2006年にウェスタン・カンファレンスの代表としてNBAファイナルに出場しているのだ。

Kobe Bryant

13) 2016年4月13日:マンバの日 - キャリア最終試合で60得点

素晴らしいキャリアには素晴らしい結末が待っていた。

37歳にのコービーは、その年わずか16勝しかしていないレイカーズで平均16.9得点を記録していた。レギュラーシーズン最終戦までプレイオフ争いをしていたユタ・ジャズを相手に、コービーは平均得点の3倍以上である60得点を叩き出したのだ。その信じられないようなパフォーマンスは、会場に集まったファンだけでなく、大勢の視聴者を釘付けにした。

14) 2009年6月1日:NBAファイナル第1戦 対オーランド・マジック

Kobe Bryant

NBAファイナルでボストン・セルティックスへの悔しい敗退を喫してからわずか1年、コービーは再びレイカーズをファイナルまで導いていた。今度の相手はドワイト・ハワード率いるオーランド・マジック。

コービーは第1戦から証明するものがあることを明らかにした。25点差の大差で勝利したこの試合、コービーは40得点、8リバウンド、8アシストという数字を残した。レイカーズは最終的に5試合でシリーズを制し、コービーはシャックが去ってから初めての優勝を達成し、初のファイナルMVPを獲得した。

15) 2000年6月14日:NBAファイナル第4戦 対インディアナ・ペイサーズ

熱狂的なコンセコ・フィールドハウスの後押しを受けていたペイサーズは、勝利でシリーズを2勝2敗のタイに持ち込む勢いだった。第3戦を足首の捻挫で離脱したコービーが、明らかに負傷した状態でプレイするなか、両チームは104-104のスコアで延長を迎えていた。

さらに延長残り2分でシャキール・オニールが退場。しかし21歳のコービーはくじけることはなかった。レイカーズ最後の8得点中6点をコービーが叩き出し、120-119の勝利へとチームを導き、シリーズを3勝1敗と王手をかける形となった。

Kobe Bryant

忘れられない瞬間

16) 2000年6月4日:ウェスタン・カンファレンス・ファイナル第7戦 対ポートランド・トレイルブレイザーズ - シャックへのアリウープ

レイカーズが最後に優勝してから12年、ロサンゼルスの街はタイトルに飢えていた。

第7戦残り10分20秒で第1シードのレイカーズが15点差でリードされているのを、ステイプルズ・センターのファンは落ち着きのない状況で見守っていた。しかしそこからレイカーズは19-4のスコアで主導権を握った。コービーが2本のフリースローを決めリードを奪うと、その後スコッティ・ピッペンの上からプルアップジャンプシュートを決めた。

そのあとに起きたことは、コービーからシャックへ、そしてロサンゼルスの街への贈り物だった。

このアリウープでレイカーズは試合残り41.3秒で85-79とリード。ロサンゼルスのファンには「帰ってきたぞ」というメッセージを送ることになった。1991年以来初のファイナル進出となり、レイカーズはそこから3年連続で優勝を果たしたのだ。

17) 2006年4月30日:ウェスタン・カンファレンス第1ラウンド第4戦 対フェニックス・サンズ - ブザービーター

レイカーズをウェスタン・カンファレンス7位へと導いたコービーは、第1ラウンドでMVPのスティーブ・ナッシュ率いるフェニックス・サンズと対戦。

相手が格上とされながらも、レイカーズはコービーのクラッチプレイで3勝1敗のリードを奪ったのだ。

コービーは2本のクラッチシュート、同点シュートと決勝シュートでレイカーズを勝利へと導いた。

18) 2008年8月24日:北京五輪 金メダルゲーム - 4ポイントプレイ

2008年のオリンピック金メダルゲームでスペイン代表と対戦するアメリカ代表には「奪還」という使命があった。

30歳の誕生日翌日、コービーは20得点、6アシスト、2ブロックというパフォーマンスでスペイン代表をねじ伏せた。

特に印象的だったのは試合のこり3分10秒で彼が見せた4ポイントプレイだろう。このプレイで、アメリカ代表のリードは9点に広がり、会場は大盛り上がり。そしてこの印象的なシーンが生まれた。

Kobe Bryant

19) 2010年3月7日 - まばたきすらしない

コービーのコートでの練習意欲やプレイは、彼が果たして人間なのかすら疑ってしまうようなものだった。マジックとのこの試合では、この質問がよりリアルなものとして取り上げられることとなった。

コービーとマット・バーンズは試合を通してフィジカルなプレイを続けていたのだが、第3クォーターにはそれがさらにレベルが上がった。バーンズは自分が何を考えていたのかわからないとのちに認めているのだが、コービーを驚かすために彼の顔面に向けてボールフェイクを一発入れたのだ。しかしコービーは微動だにしなかった。瞬きすらしなかったのだ。

その年のオフシーズン中、コービーはバーンズをレイカーズへリクルートした。コービーの理由は「自分とやり合おうと思えるようなクレイジーなやつは、自分とプレイできるくらいクレイジーだ」というものだったとバーンズは語っている。

20) 2013年4月12日:対ゴールデンステイト・ウォリアーズ - フリースロー

タフさを体現するフリースローだった。怪我まみれながらも2012-13シーズンをプレイし続けていたコービーの体は、80試合目にして壊れてしまった。

コービー曰く通常通りのプレイで、アキレス腱を断裂してしまったのだ。重症ながらも、タイムアウト中にコービーはゆっくりとベンチに歩いた。周りの手をほとんど借りないまま再びフリースローラインへと向かったのだ。

左足に体重をかけられないという状況ながらも、コービーは2本ともフリースローを決め、その日を34得点で終えた。コービーの勇気にたき付けられたレイカーズは2点差で勝利し、なんとかプレイオフ進出を果たした。

オールスターの思い出

21) 1997年2月8日:NBAスラムダンク・コンテスト 最年少王者

1997年にクリーブランドで行なわれたオールスターのルーキーゲームで31得点、8リバウンドという活躍を見せてから数時間後、18歳のコービーは足の間を通すダンクを最終ラウンドで繰り出した。49点というほぼ完璧なスコアを出し、優勝。

この日、コービーは誰もが知る選手となったのだ。

Kobe Bryant

22) 1998年2月8日:NBAオールスターゲーム初出場 - 最年少先発出場

19歳にしてリーグのスターたちとともに先発出場するように、ファンによって選出された。22分で18得点、6リバウンドという活躍を見せたコービーは、その期待に見合う存在であることを証明した。

23) 2003年2月9日:オールスターゲームでマイケル・ジョーダンと最後の戦い

24) 2009年2月15日:シャックとMVPダブル受賞

2004年にコービーとシャックが喧嘩別れしたのは有名なことだ。しかし2009年のオールスターゲームでふたりがMVPをダブル受賞したことで、その友情は修復へと向かった。

Kobe Bryant, Shaquille O

25) オールスターゲームMVP、4度受賞

コービーの4つ目にして最後のオールスターゲームMVPは、2011年にホームであるステイプルズ・センターで獲得。

4度のオールスターゲームMVPは、殿堂入り選手のボブ・ペティットとともにトップだ。

練習意欲

26) 元チームメイトでコーチのバイロン・スコット談

18歳のルーキーだったコービーは、誰よりも早く体育館入りしており、ときには真っ暗ななかでシューティングをしていた。

「まだファブラス・フォーラムでプレイしていた頃に会場に行くと、ボールの音が聞こえたんだ。明かりはついていなかった。まだ9時とか9時半で、練習は11時からだったんだ。コートに行ってみるとそこにいたのはコービー・ブライアントだった……。彼が特別な選手になることはその時点でわかったよ」。

27) ブレイク・グリフィン談

2012年のオリンピックに向けて、アメリカ代表最初の朝練習を前に、コービーは40マイルほど自転車でトレーニングをすることを決断。練習の数時間前にそれほど負荷のかかることを33歳のコービーがやるというのは信じがたく、グリフィンはその事実を受け入れるのにしばらくかかったと言う。

28) アメリカ代表トレーナー談

その同じオリンピック中、コービーは午前4時15分から午前11時までトレーニングをした。

29) ジャマール・クロフォード談

コービーは一本のシュートを練習するために、細部にこだわりながら1時間かけたことがある。

「コービーはバスケットボールにおける全てのシュートでそれをやっているんだ。コート上のありとあらゆるアングルについて考えている。全ての動きに対して2つのカウンターを持っている。ときには3つだ」。

30) シャキール・オニール談

練習3時間前に到着するのはコービーにとって当たり前のことだった。オニールの本『Shaq Uncut』では、コービーはボールを持っていない状態でもオフェンス力を磨いていたのだと綴っている。

「練習会場に行くと、彼はカットしたりうめき声をあげたり、ドリブルやシュートの動きをやっているんだ。ただボールを持っていないんだよ。変なのと思ったけど、きっとあれも彼にとってプラスになっているんだろう」。

カルチャー

31) ブランディとのプロム

スターになる直前だった17歳のコービーは、1996年に売れっ子アーティストで女優のブランディをプロムに連れて行った。その数ヶ月後、コービーはNBAドラフト1996にて全体13位で指名された。

32) 短いラッパーキャリア

「何のために生きているか?バスケットボール、ビート、そしてお前らだ」
-K.O.B.E

表面上、コービーのラッパーとしてのキャリアは1998年にブライアン・マクナイトの曲でフィーチャリングされたことをはじめ、2000年のオールスターウィークエンドでのパフォーマンスで終わったと考えられている。しかし2013年に『Grantland』で掲載された記事によると、彼のラッパーとしてのキャリアはさらに深いものがあることがわかった。

「コービーは予想外なことを好んだ。競争性を好んで痛んだ。ビートやフロウに深くのめり込み、リズム、トーン、ピッチをいじり倒すのが好きだった。彼がドープなのは決して偶然ではない」(Grantlandから)。

33) 多言語

コービーは本当に唯一無二だ。イタリアで幼少期を過ごしていることもあり、イタリア語を問題なく話せるコービーは、チームメイトのサシャ・ブヤチッチとイタリア語で会話をすることができていた。コービーはさらにスペイン語も喋ることができ、会見中にスペイン語で答えることも披露していた。

34) ビデオゲーム

しばらくの間、コービーは多くのことの最年少記録を持ち続けるだろう。そのうちのひとつに、ビデオゲームに名前が冠されていると言うものがある。1998年、コービーはニンテンドー64の『Kobe Bryant in NBA Courtside』のカバーアスリートに抜擢された。1999年と2002年にもどうシリーズでカバーアスリートを務めた。

NBA 2Kシリーズとは2009年に付き合いが始まり、『NBA 2K10』のカバーアスリートに抜擢されている。引退後も彼のキャリアを讃える『NBA 2K17:レジェンド・エディション』でカバーアスリートを務めている。

35) MVP人形

コービー対レブロン・ジェームズというNBAファイナルが実現することはなかったが、ナイキが両スーパースターの人形を使った最高なコマーシャルは見ることができた。

レガシー

36) コービー対MJ

攻守ともにゲームを圧倒することができるシューティングガードとして、コービーとマイケル・ジョーダンの比較は終わりを見ることはないだろう。どちらの方が上か?どちらの方が良いスコアラーか?ディフェンダーか?という熱い議論が常に行なわれる。

永遠に続く議論だろうが、このポジションではどちらかがナンバー1とナンバー2であるということに異論はないだろう。

37) 全てのチーム相手に活躍

コービーの全NBAチームに対するキャリアハイを見てみると、全てのチーム相手に40得点以上記録していることがわかる。

さらに、半数以上相手に50得点以上を記録しているのだ。

こちらは『Basketball-Reference』を元に作成されたキャリアハイリストだ。

チーム キャリアハイ チーム キャリアハイ
Dallas 62 Atlanta 41
Denver 51 Boston 43
Golden State 51 Brooklyn/New Jersey 46
Houston 53 (2回) Charlotte 58
LA Clippers 50 Chicago 43
Memphis 60 Cleveland 47
Minnesota 50 Detroit 40
New Orleans 50 Indiana 45
Oklahoma City/Seattle 50 Miami 42
Phoenix 51 MIlwaukee 43
Portland 65 New York 61
Sacramento 51 Orlando 41
San Antonio 45* Philadelphia 48
Utah 60 Toronto 81
    Washington 55

*マークはプレイオフ戦

38) オールスター18回、オールNBA15回、オールディフェンス12回、2008年MVP

コービーはファンだけでなく、メディアや選手たちからも憧れの存在だった。20年のキャリアで獲得した数々の賞がそれを物語っているだろう。

39) 背番号8と24

2チーム以上で永久欠番化されている選手はNBAに13人いる。しかし1チームに2つの番号を永久欠番化されているのはコービーだけだ。

どちらの背番号でも圧倒的な活躍を見せただけに、背番号8と背番号24のどちら上かという議論も常に行なわれている。間違った答えもないだろう。

Kobe Bryant

40) 5度優勝、ファイナルMVP2回、金メダル2個

キャリ終盤に怪我で出場できなかったコービーは、ファンからのヤジに対して5まで数えるということで黙らせていた。

Kobe Bryant

原文:Kobe Bryant's 40 gifts he has given to the game of basketball
翻訳:Reo Onishi


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Gilbert McGregor

Gilbert McGregor Photo

Gilbert McGregor first joined The Sporting News in 2018 as a content producer for Global editions of NBA.com. Before covering the game, McGregor played basketball collegiately at Wake Forest, graduating with a Communication degree in 2016. McGregor began covering the NBA during the 2017-18 season and has been on hand for a number of league events.