1968年の春、ニューヨーク・メッツに在籍していた黒人選手はたったの4人だった。春季キャンプが終わろうとする4月の第一週目、彼らは幸運にも、カリフォルニア州パームスプリングスでチームと一緒にいて、メンフィスのホテルで起きたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺をきっかけとした混乱の波からは離れていた。50年前の4月4日のことだ。
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4人は、保守的なベテランライターであるニューヨーク・デイリー・ニューズ紙コラムニストのディック・ヤングと雑談していた。そこにいた5人全員が、米国内で起きたその事件に失望していた。反人種差別運動の急進的なリーダー、ストークリー・カーマイケルが、黒人たちに対して武装と報復を呼びかけていたこともあり、各地の若い世代たちの行く末について心配していた。メッツの三塁手エド・チャールズは、そうした運動を否定してヤングにこう語った。「一人の間抜けが、他の間抜けたちを挑発しようとしている」。
外野手トミー・エイジーは懐疑的な見方をしていた。「ボーダーラインに立つ人々がいて、どっちの道に進んだら良いか決められないでいる。つまり、暴力か非暴力かだ」。投手アル・ジャクソンは別の疑問を持っていた。「キング牧師のように、一人の人間が、黒人にとっても白人にとっても良いことをしようとしている。なのに、彼に賛成しない誰かがいて、銃に手をかけている。そして皆自分自身に問いかける。何てことだ、本当にこの国でこんなことが起きるのか? ってね」とジャクソンは言った。
1968年4月4日はアメリカ史上において歴史的な悲しい一日となった。そして球界では、幹部たちの利益重視でおごった姿勢が白日の下にさらされた。しかし、過去にはほとんど見られなかったことも起きた。選手たちが意見を表明したのだ。そして、抗議した。幹部陣が自分たちの意見に耳を傾けるよう働きかけた。選手たちは長年、球団の命令に従わざるを得ないシステムに支配されていたが、キング牧師暗殺後は、自分たちの意見や権利を主張するようになったのだ。
キング牧師暗殺の数年前からすでに、黒人であってもスポーツ選手であれば、社会に強い影響を持つ存在として認められていた。例えば、ボクシングのモハメド・アリ、NBAのビル・ラッセル、NFLのジム・ブラウンなどだ。一方球界では、黒人選手たちはたいてい沈黙していた。
失敗の連続
黒人メジャーリーガーの先駆けとしてすでに人種差別の壁を打ち破っていたジャッキー・ロビンソンは当時、球界内で人種的不平等に対して声を上げる者がいないことに憤りを感じていた。スター選手たちに対し、彼が築いた功績が引き継がれていないことを激しく非難した。1968年4月20日付のスポーティングニュース誌で、ロビンソンはサンフランシスコ・ジャイアンツのウィリー・メイズを「人種関係のことになると怠ける黒人」と呼んだ。メイズは当時、球界におけるロビンソンの公民権運動のバトンを引き継ぐ後継者と見られていたのだ。
しかしキング牧師の暗殺後、球界を支配していた幹部たちがスポーツ界の信頼を失墜させる寸前、声を上げて、最終的に取り返しのつかなくなる大失態から野球を救ったのは、選手たちだった。
(第2回へ続く)