黒人歴史月間:プロバスケットボールで人種の壁を打ち破っていたかもしれないジャッキー・ロビンソン

Kyle Irving

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ジャッキー・ロビンソンという名前を耳にしたとき、人々が真っ先に思い浮かべるのは1947年にメジャーリーグ・ベースボールで人種の壁を打ち破った人物のことだろう。そのことは間違ってはいない。

ロビンソンは確かに"ダイヤモンド"上のスーパースターだった。あの時代、アメリカで最も人気があったスポーツに存在していた人種の壁を打ち破ったことに対するすべての理不尽な反発を乗り越えて、野球殿堂入りのキャリアを築き上げた。

ロビンソンは新人王になり、オールスターに7回選出され、最優秀選手賞(MVP)を受賞し、そしてワールドリーグでチャンピオンにもなった。首位打者のタイトルを1回、盗塁王を2回獲得し、キャリア通算の打率は.313、同じく長打率は.410の成績を残した。

しかし、もしいくつかの物事が異なる方向に進んでいれば、私たちはジャッキー・ロビンソンを野球殿堂入りのパイオニアとしてではなく、バスケットボール選手として記憶していたかもしれない。

ロビンソンが稀代のアスリートであったことはよく知られている。4年間在学したカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史上、4つのスポーツで代表チーム選手となった唯一の人物なのである。その4つとは野球、バスケットボール、アメリカンフットボール、そして陸上競技のことである。

バスケットボールのコート上では、ロビンソンはスピードのあるフォワードだった。1940年と1941年には太平洋カンファレンス南地区(現在のPac-12)で得点王になっている。

ロビンソンのプレイスタイルを表現した当時の評論は、あるいはその何年か後には、MLBではなく、NBAにおいてもなされていたかもしれないのだ。

「得点を挙げたことはこの黒くて驚異的な選手が成し遂げた中では最も小さなことに過ぎない。閃光のようなドリブルと、まるでボールが指に吸い付いたようなコントロール、そしてあの恐ろしいスピードによって、誰もあの男を止めることはできなかった」――『The Chicago Defender』(1905年創刊の現在はオンラインで運営されるシカゴのアフリカ系アメリカ人新聞)

Jackie-Robinson-Basketball
[UCLA Athletics]

「ロビンソンは速攻スタイルの核を作り上げた」――1941年UCLA年鑑

「私が生まれて初めて見た、試合中にダンクを決めた選手はジャッキー・ロビンソンだ」――元ニューヨーク・ルネサンス選手ジョン・アイザックス

1941年シーズン終了後にロビンソンが大学バスケットボールでプレイできる資格は終了した。するとロビンソンはUCLAのキャンパスを離れて、アメリカンフットボールのプロ選手になる道を目指すことにした。第2次世界大戦中に軍から召集されるまでその挑戦は続いたが、故障が理由で戦場へ派遣されることはなかった。

ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー『Opening Day: The Story of Jackie Robinson's First Season』(始まりの日:ジャッキー・ロビンソンの初シーズン物語)の著者であるジョナサン・イーグ氏は、ロビンソンはそのときから将来はアスリートとして生計を立てることを心に決めていたと述べている。

「軍隊生活を終えた後、ロビンソンはテキサス州にある小さな学校でバスケットボールのコーチをしばらく務めていました。しかしその頃から本気で別のキャリアを模索し始めたのです」とイーグ氏はスポーティングニュースに語った。

イーグ氏はこう続けた。

「ロビンソンがバスケットボールのコーチで落ち着きたいと思っていたでしょうか。バスケットボールやフットボールのプロ選手になるということはあまり良い選択肢ではありませんでした。当時はこれらのスポーツでは生活できるほどの報酬は支払われなかったのです。ロビンソンのようにスポーツ選手であることを続けたいと願うなら、野球選手になることがベストの選択肢だったのです」

「だから(野球の)二グロリーグはロビンソンにとって魅力的だったのです。本当はフットボールとバスケットボールの方が野球より好きだったのではないかと私は考えていますが、実際にプロのスポーツ選手として生活の資を得るためには、野球に最も大きなチャンスがありました」

そうしてロビンソンはカンザスシティ・モナークスと契約し、1946年にはブルックリン・ドジャースにスカウトされ、傘下のマイナーチームだったモントリオール・ロイヤルズに入団した。

「モナークスと契約したとき、ロビンソンはこれがメジャーリーグへの第一歩であるとも、あるいは人種差別と闘うことで社会に最大のインパクトを与えようとも、考えてはいなかったでしょう」

「ロビンソンはただ自分にとって最良の仕事を探していたのです。モナークス時代のほとんどを惨めな気分で過ごしました。優れた選手でありましたが、そのリーグの経営レベルの低さには不満を抱いていました。UCLAで最高レベルの大学スポーツを経験したロビンソンにとって、それは非常に腹立たしいものでした」

ロビンソンは二グロリーグでスター選手になった。しかし、夏にカリフォルニアへ帰郷したとき、バスケットボールがプロ選手として次に追及するべきスポーツとなった。

ロビンソンはロサンゼルス・レッドデビルズという名の、あまり世間に知られることがなかったプロチームに参加した。レッドデビルズはナショナル・バスケットボール・リーグ(NBL)への加入を目指していた。

レッドデビルズは南カリフォルニアでは知られた何人かの才能ある選手を抱えていた。ロビンソンはその中で先発フォワードを務めた。そしてこのチームは当時のアメリカ国内にあったプロチームでも有力な存在になっていった。

レッドデビルズがNBLのシボイガン・レッドスキンズから2回にわたって大勝を収めると、このロサンゼルスに出現した独立プロチームとの対戦を望むチームがいくつか現れた。有名チームだったニューヨーク・ルネサンスはわざわざロサンゼルスまでやってきて、レッドデビルズと対戦した。それが黒人リーグのチームが飛行機に乗って遠征を行なった初の例となった。

ルネサンスはそうしてやってきたロサンゼルスでロビンソンのレッドデビルズに一蹴された。レッドデビルズはさらにNBLでチャンピオンとして君臨していたシカゴ・ギアズとも対戦するチャンスを得た。当時のギアズにはのちに殿堂入り選手になったジョージ・マイカンも所属していた。その試合はギアズの勝利となったが、その得点差はわずかに4点だった。

その頃、NBLはNBAとの合併交渉にあたっていた。NBAは西海岸にあるチームを買収することに興味を持っていたが、その才能ある選手層にもかかわらず、レッドデビルズは十分な観客数を呼び込むことができていなかった。

NBA以前の黒人バスケットボール選手の歴史を保存することを目的に設立された『BlackFives.org』によると、ロビンソンは当時、次のように語っていた。

「このチームには抜群の技量を持ったバスケットボール選手が何人かいた。とても良いチームだったと思う。十分なだけの知名度もあったけど、それでも経営はまったく上手く行かなかった。観客があまり入らなかったからだ」

レッドデビルズがどちらのプロリーグにも参加する道が閉ざされたとき、ロビンソンは全米中のプロバスケットボールチームから誘いを受けた。ハーレム・グローブトロッターズのオーナーだったエイブ・セイパースタイン氏はこの複数スポーツのスターに1万ドルで契約を申し入れたと報じられている。しかし、ロビンソンはこの申し出を固辞した。別の黒人チームであるカントン・クシテス、デトロイト・ウルバリンズ、そしてニューヨーク・ルネサンスまでもからオファーがあったが、ロビンソンはそのすべてを断った。

ロビンソンが1947年1月に28歳でレッドデビルズを退団したとき、人々には驚きがあったと伝えられている。ロビンソンなら前述したどのプロバスケットボールチームでもスターになれたはずだ。そしてもしバスケットボールを続けていれば、1950年に人種統合を果たすことになるNBAの動きを加速させたかもしれない。バスケットボールはすでにその方向に進み始めていた。黒人リーグが長年存続していたが、黒人選手たちは既に全米中のプロリーグから誘いを受け始めていたのだ。

野球はその点では大きく遅れていた。しかしロビンソン自身の才能がそのプロセスを大きく前進させることになった。もしロビンソンがNBAへの道を選んでいたとすれば、MLBの人種統合までにはどれだけの時間がかかっただろうか。

「野球がバスケットボールより早く人種統合に向かうとはロビンソンは夢にも思わなかったでしょう。ただお金を得るための最良の仕事とチャンスを探していただけなのですから。二グロリーグの報酬もそれほど良くはありませんでしたが、それでも当時の黒人バスケットボールリーグよりはマシだったのです」とイーグ氏はスポーティングニュースに語った。

「ドジャースの会長ブランチ・リッキー氏はドジャースの扉を開くことを決断し、ジャッキー・ロビンソンはそれが上手くいくことを証明し、アメリカ中が変わっていくことになりました。バスケットボールでも軍隊でも、人種統合は進んでいったのです」

「ロビンソンは(バスケットボールの道に進んでいれば)バスケットボールにおいても正式に人種統合する道を切り開いただろうか。それは分かりません。ロビンソンは(周囲の環境に)多くの変化を生み出す"エンジン"でした。その存在がなかったとしたら、その変化にどれだけの時間がかかったかを推測することは困難です」

ロビンソンは1947年4月15日にブルックリン・ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドでデビューを果たした。それはアメリカのプロスポーツ史において、黒人アスリートたちにとって最高のパイオニアが誕生した瞬間であった。野球を選択したことは文化的な衝撃を生み出し、すべてのプロスポーツにおいて永遠に語り継がれるインパクトを後世に与えた。

ロビンソンは瞬く間に野球で成功を収めた。最初のシーズンで盗塁王のタイトルを獲得し、新人王に選出された。2年後にはナショナル・リーグの首位打者となり、MVPに選出され、その後6年連続となるMLBオールスター選手に初めてなった。

ロビンソンはバスケットボールを愛していたが、それでもキャリア中にスポーツを変えることは1度も考えていなかったとイーグ氏は考察する。

「ロビンソンは当時最高のバスケットボール選手かフットボール選手になるだけの才能を持っていたと思います。しかし、それは魅力的な選択肢ではありませんでした。巨額の契約を望めなかったからです。その頃のアメリカ人は自分の地元野球チームのベンチにいる全選手の名前を覚えていたかもしれません。しかしプロバスケットボール選手の名前は全部で3人も知らなかったのではないでしょうか。フットボールも同じです。これらのスポーツは(1940年代当時は)それほど人気がなく、ロビンソンはそこでは多くの報酬を手にすることはできなかったでしょうから」

「それにドジャースはロビンソンが怪我をすることを恐れて、たとえオフシーズン中でも他のスポーツをすることを許可しなかったかもしれません」

現実としてロビンソンは野球史に残る偉大な選手の1人になる道を選んだ。それでもやはり、もしバスケットボールを選んだとしても、同じような歴史的痕跡を残したかもしれないことは知っておくべきだろう。

(翻訳:角谷剛)

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Kyle Irving

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You read that wrong – not Kyrie Irving. From Boston, graduated from the University of New Hampshire. Sixth season as a content producer for NBA.com's Global editions. Covering the NBA Draft has become his annual "dream come true" moment on the job. Irving has a soft spot for pass-first point guards, with Rajon Rondo and Steve Nash being two of his favorite players of all time.