80年代、球界で最も成功した男:マイク・シュミット【中編】

Christian Shimabuku

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シュミット以上に簡単そうに球界で活躍した選手はいない。また、彼以上に引退まで努力した選手もいない。

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「1983年からマイクと共にプレーしてきた中で僕にとって最も貴重な学びとなったのは、準備の感覚だ」。そう話すのは、シュミットに代わりフィリーズの中心選手となったボン・ヘイズだ。「彼は誰よりも早く球場に着き、対戦チームの投手陣についての話し合いを真っ先に開始していた。ファンたちは彼が球界で探り得たものを目にしているが、チームメイトたちは彼が球界にもたらしたものを目にしている」

試合前の準備と年間を通じたコンディション管理は、シュミットに良い結果をもたらした。彼はこの十年間の終わり頃、MVPを初めて受賞した1980年とほぼ同じ生産性を見せていたのだ。

シーズンを通しての活躍は最後となった1987年、38歳のシュミットは打率.293、35本塁打、113打点を記録した。しかし、最終的に彼のキャリアを終わらせることになる回旋腱板裂傷によって1988年は苦戦し、108試合に出場して打率.249と惨めな年を過ごした。

それでも1989シーズンの最初の2か月で打率.203とわずか6本塁打をなんとか記録したシュミットは、サンディエゴでの引退会見前日の時点で本塁打数、打点数、塁打数、敬遠の四球数、そして三振数において現役選手の中で最多となっていた。

「振り返ってみると、すべてがあっという間だった」。資格取得1年目で野球殿堂入りする確証について聞かれたシュミットはそう話した。「私は『限界まで現役でいたい』という無謀な夢を抱いたことはない。好調なまま引退したいと思っていたんだが……」

実際には、シュミットは1989シーズンの残りの間、フィリーズが正しい選択をしたと思いながら過ごしていたのかもしれない。

「もしも彼らが私に一塁手への転向を薦めていたら、私は引退していなかったかもしれない」。彼はそう話した。「そのことについては、引退する数日前にロサンゼルスで話したんだ。ニック(・レイバ監督)が一塁手への転向を示唆した時、私は鳥肌が立った。そのアイデアを気に入ったんだ。だが、それは単なる話題の一つで、実現することはなかった」

リー・トーマスGMは、シュミットのキャリアを一塁で終えさせるという考えは一過性のものだと話した。

「マイクを一塁に移すことを議論したが、それはほんの一瞬のことになっただろう。正直に話すと、我々はリッキー・ジョーダンが正一塁手になると信じている」。トーマスはそう話した。「もしもマイクが我々の下に来て一塁手への転向を願い出れば、短期間でも何かがうまくいっていたかもしれない」

一塁手への転向を最初に示唆したレイバ監督は、そのアイデアに対するシュミットの反応と受け答えに困惑したという。

「私がその話題を持ち出した時、彼がそれをどれくらい真剣に捉えているのか確信が持てなかった」。レイバ監督はそう話した。「しかし、彼に話を投げかけると、彼がその話を気にいっていたのがすぐに分かった。なぜ実現しなかったのかって?まあ、何しろ彼は我々とその話をした4日後には引退しているからね」

それでも、あとわずか15本でレジー・ジャクソンに並ぶ通算548本塁打というメジャー史上6番目の記録に達したシュミットは、フィリーズが彼にピッタリはまる言葉を囁いていれば、あといくつかのカーテンコールを受けるように説得されていたかもしれない。

「私が引退した後に行ったトレードを私の引退前に行うか、そのトレードを行う予定である事を私に伝えてくれていれば、私は間違いなく引退していなかっただろう」。彼はそう話した。「メッツから来たロジャー・マクダウェルとレニー・ダイクストラの両選手は私も尊敬しているし、共にプレーするのは楽しかっただろう。また、スティーブ・ベドローシアンがトレードでチームを去るのは嫌だったが、テリー・モルホーランドとデニース・クックという若手投手2人が我々の先発ローテに加わることには非常にワクワクしている。こうした要因が、私とチームに新たな活力源を与えてくれていたことだろう」。

このシュミットの発言を聞いて、少なくともしばらくの間、トーマスはあっけにとられていた。

「その発言は、我々がそれだけのトレードができたことに対する賛辞として受け取ろう」。彼はそう話した。「もしも去年の夏、マイクが引退する以前に彼らと契約を結ぶことが可能だったならば、間違いなく契約していた。私は彼らをチームに加えてシーズンをスタートさせたいと思っていたのから。だがそれは不可能だった。それに、彼らはマイクの引退を受けて我々との契約を結んだんだ」

フィラデルフィアの歴史上、最も長くプロアスリートとしてのキャリアを全うしたシュミットは、1980年にワールドチャンピオンとなったフィリーズのメンバーの現役最後の一人だった。

シュミットはそのシーズンをきっかけに球界での不朽の名声を得ることになった。

「疑いようもなく、1980年は私のキャリアの転換期だった」。彼はそう話した。「私が死ぬまであら捜しをしてくるような多くのフィラデルフィアの人々をも黙らせることができたと思う。ソロホームランを試合終盤に放っても何の意味もないという意見も多く聞いた。浅はかなファンにとってはその意見も当然だった。私は70年代のプレーオフでは平凡だったからね。1980年のプレーオフでも及第点だっただろう。だが、ワールドシリーズ進出の手助けとなれたことを誇りに思っているし、最終的にワールドチャンピオンとなった年にチームのためにメジャー昇格を果たせたという事実も誇らしく思う。私は1980年に役割を果たし、それからフィラデルフィアに顔向けができるようになった」。

フィリーズとアストロズの1980年のナ・リーグチャンピオンシップシリーズはすべてのポストシーズンのプレーオフシリーズの中でも最もすばらしいものだったと多くの人が考えている。全5戦の内、初戦を除く4戦が延長にもつれ込んだ。

シュミットはこのプレーオフで打率.208にとどまったが、ワールドシリーズでは打率.381、2本塁打、7打点を記録し、MVPに選出された。彼はフィリーズがロイヤルズを6試合で打ち負かした要因となった。また、これは打率.286でリーグトップの48本塁打121打点を放ったシーズンの最高の幕切れとなった。

「1980年のマイクは特に、必要な場面で長打と守備でのファインプレーを1年中見せてくれる選手に見えた」。そう話すのはフィリーズのコーチ、ラリー・ボーワだ。彼はフィリーズの遊撃手としてシュミットの栄光の年月の多くを共に経験してきた。「その年、彼はプレーオフシリーズで好調ではなかったが、我々がプレーオフに進出できた理由が彼にあることは皆が理解していた。そしてワールドシリーズに進出した時、我々がアストロズとの連戦で疲れて少し気が抜けていても、マイクは皆を勇気づけるためにそこにいた」

ブロードストリートでの優勝パレードが終わった後、シュミットは新たな自信を胸に野球と大都市での生活に着手しだした。

「フィラデルフィアで初めて選手としての安全を感じた」。オハイオ州デイトンで生まれ育ち、1971年にオハイオ大学を卒業したシュミットはそう話した。「批判の声はまだ聞こえていたが、他とは違う意見がすばらしいと考える人は常に一定数いるものだ。私からすると、1980年以降のファンたちの反応ははるかに良好なものだった。物事がうまくいくようになった。選手としては、他の選手たちが私に追い付かなくてはいけないと思っているように感じた」

1981年に選手たちのストライキによってシーズンが中断されるまで、シュミットに追いつける選手はどこにもいないように思われた。

それでも、わずか102試合となったそのシーズン、彼はキャリア最高の打率.316と31本塁打、91打点を記録し、自身2度目のMVPを受賞した。

「シーズンを通して戦っていたらどんな結果になっていたかとは考えたこともない。スランプに陥っていたかもしれないからね」。彼はそう話した。「おそらくはそうなっていた。だが、私にとって1981シーズンの最も良かった点は、1980シーズンの好成績がただのラッキーではなかったと証明できたことだと思う」

「とにかく、ストライキが起こって良かったんだろう。私の助けとなったし、長期的に見ると多くの選手の財政面を支えることとなった」

シュミットは1986年に3度目のMVPを受賞したが、これは簡単なことではなかった。彼は打率.290とリーグ最多の37本塁打と119打点を記録したが、これらの記録をもってしてもチームは地区優勝を果たしたメッツに21ゲーム差をつけられてしまった。

普段の彼は報道陣に対する軽蔑を表面に出しかけていているのが常であったが、1986年の好調の際には隠し立てせずにメディアの機嫌を取っていた。

この賞の政治面でもベテランであるシュミットは、投票権を持つ記者たちと和解を図る策に出たのだ。彼はMVP投票の票を投じる新聞記者に対しては特に親切に接していた。

「こうした働きがどのように作用するのかを知ることは害にはならない」。彼はそう話した。「1970年代、まだキャリアを歩み始めたばかりの頃、私はかなりまともな年月を過ごしていたが、MVPを勝ち取ることはなかった。もしも私が後年になって知ることになったことを当時から知っていたら、私はその情報をどのように扱っていただろうか?」

「だが、1986年に何よりも私の助けとなったのは、(メッツの)キース・ヘルナンデスとゲイリー・カーターで票が割れたことだ。本塁打数と打点数でリーグ首位になるだけじゃ意味がない。他の何よりもタイミングが大事なんだ。タイミングがすべてだ。翌年の1987年は1986年とまるっきり同じようなシーズンを過ごしたが、MVPを獲得するまでには至らなかった。しかし、MVP候補には挙がっていた。ただタイミングが悪かったんだ。思い返してみると、私はキャリアの中で何度もMVPの候補に挙がっていたことを心から誇りに思う」

シュミットが依然としてリーグ最高の名誉を争っていた一方で、フィリーズが球界を支配していた期間は、その後の一連の新監督たちがクリーンナップにシュミットの名前を記入しなければいけないという結論をもたらした。

後編へ続く)


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