【第2話】伝説のナックルボーラー、フィル・ニークロの野球人生最後の1日

Jason Foster

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第1話はコチラ

 

他の選手と変わらない実力

ブレーブスを解雇されてから3カ月後の1984年1月、ニークロはヤンキースと2年契約を結んだ。これはニークロと球団の双方にとっていい結果につながった。

1984年のシーズン、ニークロは、プロ人生最後のオールスター出場を果たした。16勝を挙げ、投球回数215 2/3イニング、防御率3.09、「EPA+」(リーグ平均防御率に球場要因を加味した指標)123、奪三振136と活躍した。WARは4.6とドン・マッティングリー(ヤンキース)に次いで2番目に良かった。

こうした数字を見て、ニークロの新しいチームメイトは、彼が引退が近い選手だとは思わなかった。

ヤンキースでニークロの捕手を務めたバッチ・ワインガーは「この男の実力は、他の選手と何も変わらなかった。何かにしがみついて勝とうとしている感じは、まるでなかった」と述べている。

一方、ブレーブスは1984年、80勝82敗と負け越した。この年のニークロのヤンキースでの成績を当てはめると、もしブレーブスに残っていたらチームに最も貢献した選手になっているところだった。

「頭の片隅には『ブレーブスは今頃、どう思っているんだろう?』という思いはあったよ。彼らにとって(自分を放出したことは)間違いだったのか、どうだったのか、ってね」(ニークロ)

実際、ブレーブスはニークロのことを忘れていなかった。1984年の8月、ヤンキースの試合がオフの日、ブレーブスはニークロをフルトン・カウンティー・スタジアムに呼び、「フィル・ニークロとの夕べ」という奇妙なイベントを開いた。ニークロに記念品を贈り、背番号35を永久欠番にした。シンガーソングライターのテリー・キャッシュマンは、ニークロに敬意を表し、歌もプレゼントした。

「あの日は、ロッキングチェアをプレゼントされたんだ。ニークロは歳だからロッキングチェアがいいと思われたんじゃないかな」(ニークロ)

おそらくこのイベントは、ブレーブスが過ちを認めたことを示すものだったのかもしれない。しかし、彼を解雇してから1年も経たないうちに開催したことは、彼が別のチームで勝利を重ねて活躍していたことを考えると、非常にぎこちない感じがした。

ニークロはブレーブスに敵意を持っていなかった。

「彼らはボクをただ呼んでくれただけ。ボクは1人の選手だし。時は流れていくんだ」(ニークロ)

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翌1985年のシーズンも、ニークロはヤンキースで活躍した。2年連続で16勝を挙げ、三振数はチーム1位。完投数7、投球回数220はともにチーム2位だった。

トロントで行われたシーズン最後の試合では、完封勝利で通算300勝を飾った。

通算300勝目の試合は、少し風変わりだった。ニークロはナックルボールをほとんど投げなかったのだ。彼は決め球のナックルボールを使わずに、アウトを取りたいと考えていた。通算300勝がかかってから5度目の挑戦となった試合で、ニークロはナックルボールを封印することにしたのだ。

ニークロはこの試合で、ツーシーム・ファストボールに地味な変化球、チェンジアップのスローボールといった基本的な球種を組み合わせ、ジェイズ打線を4安打、5奪三振に抑えた。

「ボクは試合全体を通してピッチングを組み立てていたんだ」とニークロは語った。

捕手のワインガーはくすくす笑いながら言った。

「それはメジャーリーグの水準を上回るような投球内容ではなかったんだけど、ジェイズ打線は翻弄されたんだ」

だが、9回2死で、ブレーブス時代にチームメイトだったジェイズのジェフ・バロウズが打席に立った時、ニークロは懐かしい感情を抱いてしまった。

ニークロはワインガーに言った。

「バッチ、ボクはナックルボールで299勝を挙げたんだ。最後はバロウズをナックルボールで仕留めようじゃないか」

ニークロは実行した。そして5球でバロウズを三振に仕留め、通算300勝を成し遂げた。

エキサイティングで、感動的な1日だったが、彼にとっては完璧な日ではなかった。

「ブレーブスで300勝を挙げたかったんだ」(ニークロ)

それでもニークロは、46歳にしてメジャーリーグの強打者を打ち取ることができた。この年97勝を挙げたヤンキースで、この試合を含む32試合に登板し、16勝を挙げている。

一方、ブレーブスは1985年、66勝96敗と大幅に負け越し、ナ・リーグ最多失点を記録した。この年のニークロの成績は前年と比べて下がったものの、WARは1.7とブレーブスのほとんどの先発メンバーより高かった。

しかし、ニークロは「だから俺は言っただろ」という風にヤンキースでの成功を誇示することはなかった。彼は投げる機会を与えてくれたことをヤンキースに感謝していた。ヤンキースでベストを尽くしたが、それでも彼の心はまだブレーブスとともにあった。

「ニューヨークにいた2年間、アトランタ・ブレーブスのことを考えない日はなかったよ」(ニークロ)

1985年のオフ、ヤンキースはニークロにフリーエージェントの権利を与えた後、1986年1月に彼と再契約した。だが、関係は長くは続かなかった。ニークロがプロ野球人生最後のピッチングをやり遂げたと判断したのだろう。ヤンキースは春のキャンプ中にニークロを放出した。

1週間後、ニークロはインディアンズと契約した。

だが、1986年のシーズン、彼の野球人生は終わりに近づいていた。32試合に登板して11勝11敗とそこそこの成績を残したものの、ニークロは1980年以来最も多い塁打数を許した。防御率、FIP、WHIP(1投球回当たりの与四球・被安打)はいずれも悪化した。奪三振数も著しく減少した。47歳を迎えた彼の右腕は、ついに年齢による劣れを見せ始めた。

ニークロはそれでも引退するつもりはなかったが、1987年の夏の終わりには、明らかに投手としての限界に突き当たった。シーズン途中にトロント・ブルージェイズに移籍した。インディアンズでは、22試合に出場して7勝11敗、防御率は5.89だった。

ブルージェイズでは光明もあった。ブルージェイズはこの年、ア・リーグ東地区で優勝争いを演じていた。このため、ニークロとしては、これまでの野球人生で一度も体験できなかった、ワールドシリーズで投げるという夢を実現できる可能性が出てきたのだ。

ブルージェイズにしてみれば、48歳のナックルボーラーに残された最後の力を絞り出したかったのだろう。先発陣の5番手として彼を起用した。だが、うまくはいかなかった。ニークロは3試合に登板して12回で11点を失い、ブルージェイズはその3試合すべてで敗北した。球団はメジャーリーグの全チームにトレードを提案したが、名乗りを挙げるチームはなく、8月31日に彼を解雇した。

ニークロは初めて真剣に引退を考えた。

彼はこの時、地元紙『アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション』(AJC)の取材にこう述べている。

「これで終わりなのかなとは思っているよ。でも、自分が勝利できないと確信するまで、決して諦めないと言ってきた。今はまだそれを確信することができないんだ。どうなるか見てみよう」

だが、電話は誰からもかかってこなかった。

第3話に続く)

原文:Back Where He Belonged

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Jason Foster joined The Sporting News in 2015 after stops at various news outlets where he held a variety of reporting and editing roles and covered just about every topic imaginable. He is a member of the Baseball Writers’ Association of America and a 1998 graduate of Appalachian State University.