1987年9月27日、ジョージア州アトランタ
フィル・ニークロは無死満塁のピンチに遭遇し、リードを失いつつあった。
しかし、こんなことには慣れている。鋭く落ちるナックルボールで打者を惑わせ、ピンチを切り抜けることでキャリアを築いてきたのだ。24年間のメジャーリーグ生活の中で、切り札のナックルボールはピンチを切り抜ける特効薬だった。
ところが、この日はそれが効かなかった。ニークロが違うチームのユニフォームを着るのは、今シーズン3度目。約1カ月近く、マウンドにも立っていない。48歳の身体はかつてのように思い通りに動かない。球界は、ニークロがもう終わった選手だと見ていたし、彼自身もついにそのことを実感する時が来た。
だが、ニークロはその日、自分が一番いたかった場所に立っていた。ブレーブスのエース投手として20年間、活躍したアトランタ・フルトン・カウンティー・スタジアムのマウンドである。
ニークロはそこでいつもボールを投げていたかった。だが、4年前、ブレーブスは彼を解雇していた。
引退試合での登板はサプライズだった。ニークロが最後にマウンドを去った時、彼はそこに永遠に戻って来ないはずだった。
だが、今回はこれが本当に最後だった。
彼の野球人生は、ここで終わるべきだった。
「アトランタ・ブレーブスの帽子を被ったまま、試合から去ることができるなんて、思ってもみなかったよ」(ニークロ)
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絶え間ない活躍
1964年から1983年まで実に20年間にわたり、ブレーブスでフィル・ニークロ以上の成功を収めた投手はいない。
ニークロは、防御率、奪三振数、完投数のナショナル・リーグ・タイトルを何度も獲得しているが、ブレーブス時代の彼の最大の持ち味は、何と言っても持久力だろう。
ストライクが入らず不振だった1981年のシーズンを除くと、ニークロの年間投球回数は最低でも201 1/3イニングだった。最も多かった年は342イニングを投げた。年間投球回数では4回、リーグ1位を記録した。リーグ3位以内に入ったことも4回ある。
それだけニークロは長年、活躍を持続していたということになる。
もちろん、その投球回数で膨大な数の打者と対戦しているわけだから、勝負の苦汁もなめてきた。面白い統計データがある。
例えば、21勝20敗だった1979年には、リーグの最多勝利数と最多敗戦数を同時に記録した。1年前の1978年には、敗戦数、被安打数、自責点、死球数において、リーグ最多を記録しているが、「同じポジションの代替選手と比較して上積みした勝利数」を示す指標「WAR」(Wins Above Replacement)は、10.4と両リーグでトップだった。
すなわち、持久力が高いだけではなく、ニークロは極めて優れた投手だったのだ。
ニークロが在籍していた20シーズンのうち、ブレーブスの勝率は11シーズンで5割以下だった。1960年代から1980年代初頭にかけて、チームはニークロに頼る部分が非常に大きかったと言えるだろう。
だからこそ、ブレーブスが1983年にニークロを手放したのは、非常に衝撃的だった。彼の放出は、最後の瞬間まで、彼自身を含めて秘密裏に進められた。
ニークロの放出劇は、ブレーブスの歴史で最悪の失策だった。
ニークロが1983年のシーズンに最後にフルトン・カウンティー・スタジアムのマウンドに上がったのは、9月26日の対ジャイアンツ戦だった。7回裏、ジャイアンツの打者、デーブ・バーグマンを四球で歩かせ、2死1、2塁となった局面で、ジョー・トーリ監督は交代を告げた。
「ナックシー(ナックルボールを得意球とするニークロの愛称)、もういいよ」。監督が彼に述べた別れの言葉はそれだけだった。
ニークロはいつも通り、観客からていねいな声援を受けながらマウンドを降りた。それが最後だった。
9月26日の試合から10日後、チームの幹部はニークロを呼び、引退を促した。
1983年のシーズンは、ニークロにとって平凡な成績に終わった。しかし、そのわずか1年前の1982年には、レギュラーシーズン最終週に2試合連続完封勝利を挙げ、ほとんど1人の力でチームをプレーオフ進出に導いていた。
だが、球団はニークロが若手台頭の障害になると見ていた。若手投手陣が勝利に貢献するのを老兵が阻害していると考えたのだ。
放出が決まった日、ニークロは取材陣にこう話した。
「25年間の結婚生活が破綻した。離婚のようなものだよ。ボクの妻と3人の子ども以外、ボクが持っているものは全てブレーブスから得たんだ」
球団は、ニークロ放出をめぐる混乱を必死に抑えようとした。
ブレーブスのゼネラル・マネジャー、ジョン・マランはこの時、次のように発言した。
「ブルペンの敗戦処理投手として起用するのは、彼の品位を落とすことになると思う」
だが、ニークロは心の準備ができていなかった。その前から引退するつもりは微塵もなかった。
ニークロは反論した。
「ボクはまだ十分にいいピッチングができている。だが、球団事務所は方針に従って行動しているまでだ」
球団が選手の放出を決断することは当たり前のことだ。だが、フィル・ニークロは、普通のブレーブスのベテラン選手とは違っていた。最も長く登録選手として在籍したニークロは、ブレーブスの一部だったのだ。
ブレーブスで強打者として長年活躍し、ニークロが1979年に通算200勝を挙げた際に捕手を務めたデール・マーフィーは「選手として、(球団の判断は)間違っていたと思っている。組織は良い決断をすることもあるが、時には間違った判断もする。(ニークロの放出が)良い決断だったかと言えば、ボクは疑問に思っている」と指摘した。
マーフィーによると、グラウンドでの実績だけではなく、ニークロの若い選手やロッカールームへの影響力は大きく、放出をめぐる球団のやり方は選手たちを動揺させたという。
「ボクたちはみんなショックを受けたんだ」(マーフィー)
興味深いことに、マーフィーは後に自分の選手人生が終わりに近づいた頃、ニークロが辞めた時のことが頭にあった。その時には球団の首脳陣は交代していたが、マーフィーは同じようなトラブルを避けようと考えた。彼は1990年のオフに、トレードが成立しなかった場合はフリーエージェントを宣言するつもりだと球団に伝えた。結局、マーフィーはその直後にトレードでフィリーズに移籍している。
「キャリアが終わりに近づくと、組織はそこに長くいる奴の扱いに苦労するものだ。ボクはそれが厄介だと思ったんだ。ニークロの影響は大きかったよ」(マーフィー)
結局、ニークロは1983年10月、解雇通告を受け入れ、次のシーズンの所属先が決まらないままオフシーズンに入った。リンドン・ジョンソンが大統領を務めていた時代(在籍期間1961年〜1963年)以来初めて、ニークロは無職になった。
ニークロにとってこの時の体験は辛かった。彼が解雇される前、1984年のシーズンをどうするつもりなのか、球団は彼に一言も聞かなかった。戦力外になるかもしれないことも全く知らされなかった。
ゴールが見えないことは、その後4年間のニークロを苦しめた。
ニークロは解雇された日、「ボクがいつマウンドを降りるのか、知っておきたかった。特別な日になるはずだったんだ。ボクの母や友達も(引退試合に)呼びたかった」と報道陣にコメントした。
(第2話に続く)