なぜ、楽しむことを嫌うのか?
「権利」ということについて考えると、バッターは試合において歓喜の瞬間をよう喜ぶ「権利」を持つべきなのか?投手は決定的な場面で三振を奪った後、自然に喜びを現す権利を持つべきなのか?答えはイエスだ。彼らは喜びを示すべきなのだ。
喜びを表すとだれかが困るのか?いや、そうはならない。野球というのはゲームだ。ゲームは楽しいものであるべきなのだ。楽しむことを屈折して定義づけるのはやめなくてはならない。
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全体において大切なのは、今回挙げたルールは野球本来の性質を保ち、ゲームの品位を守ることではないということだ。今回挙げたルールが関係するのは、次の2つの状況となる。
1)対戦チームのミスによって生まれた歓喜の瞬間に自然な喜びの表現をしたプレーヤーを罰する。
2)得点や状況にかかわらず全てのプレーを懸命に行う。
これらのルールは暗黙のものであるため、その時代の選手が持つ道徳感によって、変わったり、無くなることもある。
人間の感情を左右するルールや感情を抑止するルールが多くあることは、奇妙なことだ。ホームランを打って喜び、それを表現したいからといって、どうなるのか?野球とは喜びが多いゲームなのだ。なぜ、喜びがないようにふるまわなければならないのか?
ゲームとは本来、いつでも平然でいなければならないと主張する人もいる。30、40、さらに50年前の選手はこのことを理解していて、敬意を払っていたけれど、最近の若手選手たちは、わずか2~3年前の海外のようなプレーをするという主張だ。事実ではない。その当時全員に共通して試合に対する「敬意」に関するという主張がある。しかしそれは、最良の出来事は記憶に残り、悪いものは歴史の中で修正されてしまっているのだ。
その当時を振り返って、バットを投げる行為は許されていなかったのか?1987年のワールドシリーズを振り返って、カーディナルスのトム・ローレスについてみてみよう。ローレスは、その試合までは、打率0.080の打者であり、生涯での本塁打はたった1本だけだったのだ。確かにカーディナルスの選手たちは、試合で正しいプレーする方法を知っているものもいた。正しいものだったのか?
ツインズからは試合後のバッシングや報復もなかった。解説者たち(アル・マイケルズとティム・マッカーバー)が、単にその行為を楽しんで見ていたことにも触れておきたい。もしローレスが今の時代のその行為をしていたなら、話題に上がり責められたかもしれない。
選手たちは試合中に過剰に喜んだことはなかったのか?1984年のワールドシリーズ第5戦でホームランを放った後のカーク・ギブソンを振り返ってみたい。彼のホームランによって試合が優勢になり、タイガーズがワールドシリーズを制したのだ。彼は急いで塁を回ることはなかった。その後ホームに戻った際に、彼はフィールドに戻り11点目獲得の喜びを示した。この行動は2015年のワールドシリーズとかけ離れたものだろうか?確実にかけ離れていると言える。
その後、選手たちは自身の感情を隠し続けたのか?パスカル・ペレスとフアン・ベレンガーはどうだろうか?選手として晩年のペレスはとても個性的だった。三振の後にはマウンドで跳ねたり、体を揺らしたりと踊りだすかのように喜びを表していた。活気あふれる動きが彼の魅力であり、そういった行為を好まない人はいたものの、人々はそれを受け入れていた。べレンガ―は三振の後には闘牛士のような動きをしていた。もう一度言っておこう、それが彼のゲームスタイルの一部であるだけなのだ。
打った後のバットを投げてもいい、自分のホームランに喜んでいい。出来る限りの得点を獲得して、全ての喜びを示してほしい。少なくとも、自分が応援するチームであれば、ファンたちは選手の喜びが大好きなのだ。
他のチームが同じことした時には、もちろん、立て直すべく学ぶ必要がある。
選手は他の規定を守る人たちに関してはどうしたらいいのか?気楽に行こう。野球はゲームだ。目一杯楽しむべきなのだ。
(完)
原文:Baseball’s five dumbest unwritten rules, ranked by their stupidity
翻訳:Ayako Hayashi