元記事:A Hiro on two continents: Tanaka’s big-game success dates to high school
(2017年10月18日公開)
実際に仕事ぶりを見たことがない誰かに1億5500万ドルを投資するのは、多大な信頼を要する。
2014年に田中将大がニューヨーク・ヤンキースと契約する前、ブライアン・キャッシュマンGMは田中の映像を見たことしかなかった。日本のスーパースターについて確かめるため、彼は自ら太平洋を渡る代わりに、スカウトの目を信頼した。特にトレイ・ヒルマンを。
かつて日本ハム・ファイターズの監督を務めていたヒルマンは当時、ヤンキースの特別アシスタントとして働いていた。彼は対戦相手として、田中が支配的な投手であることを知っていた。右腕が日本を発ちメジャーリーグにやってくるとき、キャッシュマンは必要な情報を全て持っていた。
「私たちは彼が素晴らしい投手であり勝負師であるという情報を持っていたから、彼がアメリカに来る決断をしたとき、私たちは良いポジションにいたのです」キャッシュマンはスポーティングニュースに語った。
4年後、その大型投資の価値は証明された。2017年のレギュラーシーズンは不甲斐ない成績だったにも関わらず、オプトアウト(契約破棄)の可能性を持つ田中はこの10月、躍動している。ポストシーズン最初の2登板で、28歳の彼は13回を投げて僅か2失点、7安打10奪三振と好投した。
田中が今月3度目に登板に備える中(ヤンキースはアメリカン・リーグ優勝決定シリーズでヒューストン・アストロズを3勝2敗とリードしようとしている)、彼がレギュラーシーズンの不振の後、大舞台で成功を収めていることに驚いている人もいる。
しかし、そうした人々はこれまで彼に注目してこなかっただけ、とも言える。
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「彼が日本で投げていた頃、負けないことで有名でした」時事通信社のレポーター、コウタロウ・オカダは、海外での田中の偉業に関する長いリストを引用しながら、スポーティングニュースに言った。
田中が日本で最初にシーンに登場したのは、彼が高校2年生だった頃だ。彼の故郷である伊丹から飛行機で2時間の場所にある駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学を決めた後、10代の少年は日本で毎年行われる高校野球の大会、夏の甲子園に出場した。
「アメリカで甲子園と比較できる唯一のものは、3月のNCAA男子バスケットボールトーナメントです。誰が自分の街、あるいは故郷のチームを応援します」オカダは言った。「日本の高校球児たちにとって、もっとも大きなステージです。あらゆる高校球児にとって、甲子園でプレーすることは目標のひとつなのです」
田中は2005年で輝きを放ち、そして2006年の大会でもまた、腸の炎症を患いながらも輝いた。彼は決勝戦で3回から登板し、リリーフで12 2/3回を1失点に抑えた。1-1で同点の延長15回に試合は中断され、翌日再試合をやることになった。
翌日、田中は1回からマウンドに上がった。彼はマウンドを下りることなく、3点を失った。中0日での素晴らしいピッチングだったが、彼のチームは1点差で敗れた。
苫小牧は優勝を逃したが、田中は貴重な経験を得た。
「僕が甲子園で投げてから10年が経ちます」田中を火曜日、シリーズ2度目の先発に備えながら、通訳を介して言った。「僕が言えるのは、僕が今の投手になるために、その経験は助けになったということです」
(後編に続く)