マイケル・ジョーダンは良い野球選手だったか? ホワイトソックス傘下に在籍した短い記録

Ryan Fagan

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マイケル・ジョーダンの最初の引退は衝撃的としか表現できないものだった。『ESPN』が制作した全10話のドキュメンタリー・シリーズ『The Last Dance』(邦題『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』/Netflix)でも必ずこのエピソードは紹介されるだろう。所属チームのシカゴ・ブルズはNBA3連覇を果たし、ジョーダンは7年連続で得点王に輝いていたのだ。彼は間違いなくバスケットボールの世界で頂点に立っていた。

ところが、1993年10月6日、ブルズのトレーニング・キャンプが開始する直前、ジョーダンは引退を発表した。1,2日前から噂や憶測報道が流れ始めてはいたが、それでもこの衝撃的なニュースにNBAは震撼した。その後ジョーダンが次キャリアの方向を正式に発表したときはもう衝撃は小さかった。彼がそうすることはスポーツ界では公然の秘密として知られていたからだ。

ジョーダンは野球が上手かったのか?

1994年2月7日、31歳の誕生日を迎える10日前、ジョーダンはシカゴ・ホワイトソックスと正式に契約を結んだ。ブルズのオーナーだったジェリー・ラインズドルフ氏はまたホワイトソックスのオーナーでもあった。ジョーダンはコミスキー・パーク(訳者注:ホワイトソックスの本拠地球場。現在名称はギャランティード・レート・フィールド)で定期的に打撃練習を行っていたし、野球に挑戦する意向を隠そうとはしていなかった。そしてついに彼はは自身の名前がついた有名なバスケットシューズを壁に吊るすことを決めたのだ。

ジョーダンは子供のころから野球が好きだった。父親もまた野球好きだった。ジョーダンはこの1年前の夏にも野球をしようとしていた。

バスケットボールから公式に引退したあと、ジョーダンは翌年の春に野球に挑戦しようとした。それは1993年の夏に殺人事件の犠牲になった父親への思いも関係していただろう。

そんなジョーダンの野球への意欲と努力には、自身をバスケットボール界のスーパースターへと押し上げた闘志と同じだけのものがあった。彼には強烈な競争心があって、その競争が何であっても構わなかったのだ。スポーティング・ニュースのベテラン・コラムニストであるデイブ・キンドレッドがこんな話を1994年1月17日に書いている。ジョーダンが正式にホワイトソックスと契約する1か月前のことだ。

このホット・ストーブを巡る話はかつてジェリー・クラウス氏から聞いた話を思い出させる。クラウス氏はブルズをNBA3連覇チームに築き上げたが、その前の10年間は野球関係者だった。ジョーダンが「自分は何でもできる」と口にしたとき(ジョーダンは後ろ向きで両足の間からボウリングの球を転がして2回ストライクを取ったことがあるとジェリー・ラインズドルフ氏が言った)、クラウス氏はジョーダンを挑発してやろうとしたのだ。

クラウス氏はこう言った。「マイケルはいつも自分は野球の優れた打者なのだと話していた。だからこう言ってやったのさ。“今からすぐにコミスキー・パークに行こう。そこでプロのバッティング・ピッチャーに投げてもらおう。君は外野にボールを飛ばすこともできないだろう” とね」。

ジェリー、それでどうなった?

「マイケルは2本ホームランを打ったさ」。

ジョーダンは春季オープン戦では低調な滑り出しだったが、それは予想されていたことだった。いくらバッティング・ケージでマシンやバッティング・ピッチャーを相手に練習したところで、すぐにメジャーリーグの投手たちが投げるボールに対応できるはずはないのだ。

しかし、ジョーダンはやはり特別な何かを持っている。そうファンの記憶にいつまでも残る出来事が4月7日に起きた。春季オープン戦のハイライトであるウィンディ―シティ・クラシック(訳者注:ともにシカゴに本拠地があるカブスとホワイトソックスの試合。普段はリーグが違うので対戦することはない)において、カブスの本拠地ウィグレー・フィールドでジョーダンは5打数2安打の活躍を見せたのだ。

「自分がメジャーリーグに昇格できるレベルだと証明できたとは思っていない。それが正直な気持ちだ。だが、私はけっしてあきらめない。私は普通なら5年間かかることを8週間でやり遂げようとしているのだ。今までのところは、自分が望んだ結果を出せていない」とジョーダンは春季キャンプ中にレポーターに語ったことがSporting Newsのホワイトソックス関係の記録に残っている。

ジョーダンの野球成績は?

ジョーダンは1994年のシーズンをホワイトソックス傘下2Aのバーミングハム・バロンズで過ごし、シーズン公式戦で127試合に出場している。成績は以下の通りだ。

127試合、497打席、436打数、打率.202、出塁率.289、長打率.266、OPS .556、88安打:2塁打17本、3塁打1本、本塁打3本、51打点、46得点、30盗塁(盗塁失敗18回)、51四死球、114三振。

見ての通り、公式戦の記録には特に優れた数字は見当たらない。30盗塁はなかなかのものだが、失敗も18回あるのでは価値は下がる。

もう少し詳しく見てみよう。ジョーダンは3本しか本塁打を打っていないが、それはジョーダン以外のバロンズの選手たちも同様だった。この年、バロンズのチーム本塁打数は40本で、これは2Aサザン・リーグで最低の本数だった。リーグトップはシアトル・マリナーズ傘下のジャクソンビルの131本で、バロンズ以外のすべてのチームが最低63本を打っている。ジョーダンが打った3本はすべてシーズンが後半に入ってからだ。打率は好調だった開幕直後から少し下降していた(最初の1か月の打率は.265だった)。

ジョーダンは497打席で114個の三振を喫した。三振率は22.9%になる。その年のサザン・リーグの平均16.4%に比べると、かなり悪い数字だ。だが、むしろジョーダンは時代の先を行っていたのかもしれない。2019年のMLB全体の三振率は23.0%なのだ。

ジョーダンの守備位置はライトだった。最初のうちはぎこちない動きが目立ったが、シーズンが進むにつれて、ジョーダンの守備が上達していることは誰の目にも明らかだった。

もうひとつ忘れてはならないことだが、メジャーリーグがストライキの影響で1994年シーズンを8月に終了した後も、ジョーダンは野球の夢を追い続けた。ジョーダンはアリゾナ秋季リーグに参加し、最初の41打数で打率.317を挙げ、最終的に123打数で打率.252の成績を残している。

マイケル・ジョーダンはMLBに昇格できただろうか?

テリー・フランコーナ(現クリーブランド・インディアンス監督)はMLBの監督として豊富なキャリアを持っている。フランコーナはジョーダンが在籍していたときのバロンズで監督を務め、またアリゾナ秋季リーグでもジョーダンを指導した。そのフランコーナが「ジョーダンに必要なのはプレイする時間だけだ。それはまだ十分ではない。来年へのよい基礎固めにはなった」と語ったとSporting Newsで報じられている。

MLBのストライキは1995年シーズンになっても続いたが、マイナー選手たちはその対象外だった。だからジョーダンは春季キャンプ地にも現れた。春季オープン選手が代替マイナー選手たちによって行われようとしていたときに、ジョーダンは野球から離れた。ホワイトソックスも野球を巡るこの醜い争いに巻き込まれることを望んでいなかったのだ。

この3月にジョーダンはバスケットボールに復帰した。もし彼が野球を続けていたらどうなっていたかの問いは永遠に謎のままとなった。

「もしあと1000打席の経験を積むことができていたら、ジョーダンはメジャーに昇格できたと思うよ。だけど、そのシーズンで人々が待っていたものは他にあったのさ。野球はジョーダンにとって唯一のものではなかった。ジョーダンは自分自身を再発見したのだと思う。競争することがいかに楽しいかってこともね。私たちはジョーダンにバスケットボールをもう一度したいと思わせたのさ」とフランコーナが語ったコメントがESPNの記事に残されている。

もしかしたらジョーダンはメジャーリーグに昇格していたかもしれない。多分だめだっただろうが、ひょっとしたら。ジョーダンは1995年シーズンを3Aのナッシュビルで迎えることが決まっていた。もし野球だけがジョーダンの目標だったとしたら、間違いなくジョーダンはそのための努力を払っただろう。だが31歳になっていたジョーダンは、同じリーグでプレイする選手たちに比べて、バッティング・ケージでの練習以外にも、野球の経験があまりにも少なすぎた。

キンドレッドが書いたもう一つのコラムを紹介しよう。ジョーダンがブルズに復帰した直後に書かれたものだ。

ジョーダンが2Aでのシーズンに入ったばかりの頃だ。テキサス・レンジャーズの投手コーチだったトム・ハウスがこんなことを言った。「ジョーダンは今までに35万球の速球と20万4000球の変化球をプロのレベルで見てきた選手たちと競争しようとしているのだ。野球とは反復がものを言うスポーツだ。もしマイケルが高校卒業後から野球を続けていれば、バスケットボールで稼いだのと同じぐらい野球でも稼げていたと私は思う。だがジョーダンは実際のところ2Aでも難しいだろう。メジャーとはかなりのレベルの差がある。2Aの投手たちはまだ速球や変化球を上手くコントロールすることができない。ジョーダンが正確なコントロールをもつメジャーの投手たちを打つレベルに達するまでには数年はかかるだろう」。

もちろん、バスケットボールに復帰するジョーダンの決断は間違ってはいなかった。その後の1996、1997、1998年シーズン、ジョーダンはブルズを再度NBA3連覇に導いたのだから。

(翻訳:角谷剛)

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Ryan Fagan, the national MLB writer for The Sporting News, has been a Baseball Hall of Fame voter since 2016. He also dabbles in college hoops and other sports. And, yeah, he has way too many junk wax baseball cards.