アトランタ・ブレーブスのタイラー・マツェックがイップスを克服してリリーフの切り札になるまで

Edward Sutelan

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10月23日の夜(日本時間24日)、アトランタ・ブレーブスのブライアン・スニッカー監督がマウンドに向かい、ルーク・ジャクソンから受け取ったボールをタイラー・マツェックに手渡したとき、試合だけではなくシリーズの行方も土壇場を迎えていた。

ナショナル・リーグ・チャンピオン・シリーズ第6試合、7回表のこの場面まで、ブレーブスの投手陣はロサンゼルス・ドジャースの攻撃を初回の1点だけに抑え込んでいた。ところがその回、先頭打者のクリス・テイラーが2塁打を放ち、コディ・ベリンジャーが四球で歩いた後、A.J.ポロックのタイムリー2塁打が飛び出し、試合は4-2となった。なおもドジャースは同点のランナーを得点圏に置き、しかもノーアウトだった。

この絶体絶命のピンチにマウンドへ登ったマツェックが左腕から繰り出すボールは、アルバート・プホルス、スティーブン・スーザ・ジュニア、そしてムーキー・ベッツを三者連続三振に斬って取った。同点のランナー(ポロック)は2塁ベースに釘付けとなり、ブレーブスはワールドシリーズ進出まであと残り6アウトに近づいた。

マツェックは最初の打者だけからは三振を取りたいと思っていたと試合後に言った。1アウトさえ取れば、その後にもし犠牲フライで1点を失ったとしても、まだリードは保っていられると考えたのだ。

「ルーク(ジャクソン)は少し苦しんでいたね。レフト線への不運なヒットもあった。今シーズン、ルークが僕をこんな状況から助けてくれたことが何回もあるから、今度は僕がお返しする番だった。積極的な攻めの投球をして、ルークが残したランナーが得点するのを防ぎたかった」とマツェックは言った。

マツェックはそれだけでは終わらず、8回にもマウンドに登ったのだ。その回は先頭打者から三振を奪い、続く2人を内野ゴロで打ち取り、またもや三者凡退で終わらせた。最終回はクローザーのウィル・スミスにリーグ優勝が懸かるボールを託した。

スミスは9回を三者凡退で締め、マツェックとブレーブスはワールドシリーズへの進出が決定した。

数年前までの状態からはこの日を予想した人は少なかっただろう。2015年から2020年シーズンが始まるまでの間、メジャーリーグの舞台からずっと遠ざかっていたのだ。ブレーブスと再びメジャー契約を結ぶまで、イップスに苦しみ、マイナーリーグと独立リーグから這い上がってきた。

 

ドラフト1巡目指名

カリフォルニア州ミッション・ビエホの高校を卒業したマツェックは2009年のMLBドラフトでもっとも有望な投手の1人だと見られていた。

ベースボール・アメリカ社のランキングではマツェックは部門第9位だった。コロラド・ロッキーズは全体11位でマツェックを指名した。

マツェックはマイナーリーグで期待された通りの順調なスタートを切った。2010年シーズンを1Aで過ごし、18試合に先発し、89回1/3を投げ、88個の奪三振、防御率2.92 の成績を残した。四死球の数は62個と多かったが、高卒の投手としては無理もなく、成長するにつれて制球力は向上していくだろうと思われていた。ベースボール・アメリカ社は2010年の有望株選手ランキングでマツェックを全体23位とした。

マツェックはマイナー時代を通して制球に苦しみ続けたが、2014年にはロッキーズでメジャーデビューを果たした。そのシーズンは6勝11敗、防御率4.05、117回2/3を投げ、奪三振91個、四死球44個の成績だった。2015年はシーズン開幕をメジャーで迎え、22回を投げて防御率4.09、19個の四死球。奪三振はわずかに15個だった。5月8日にはマイナーリーグに降格させられた。

MLB公式サイトによると、その頃のマツェックはイップスと呼ばれる精神的な原因に起因する症状に苦しんでいた。

「バッターを前にすると、左手から投げたボールが一体どこへ飛んでいくか、自分でも分からなくなっていた。何かがおかしかったのだと思う。でも今は大丈夫だ。あの問題はなくなったと思う。これから自分のキャリアをやり直す準備はできている」と2020年3月に語った。

マツェックは2015年6月にはショートシーズンの1Aにまで降格した。その年の最後には手術を受け、2016年はずっとマイナーリーグでプレイした。すべてリリーフ投手として33試合に登板し、防御率は6.75だった。26回 2/3を投げて、与えた四死球は33個を数えた。ロッキーズはシーズン終了後にマツェックを解雇した。

 

メジャー復帰への足取り

マツェックは復活をかけて2つの組織を渡り歩いた。2017年にはシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結んだが、3月には解雇され、そのシーズンは1度もプレイすることはなかった。

マツェックはその頃野球を辞めようとさえ思ったとデンバー・ポスト紙に語っている。そんな彼に野球人生を諦めないようにと励ましていたのは妻のローレンさんだけだった。

「2017年はどのチームからも声がかからなかった。仕方がないからカリフォルニアの家に戻ってきた。キャッチボールをすることさえ困難だった。ローレンにはもう僕の野球人生は終わったと言った。学校に戻ろうって考えていたのさ。それからのことは後で考えると彼女に言った」と言った。

マツェックの妻はまだ夫が野球界に残るだけの力があると信じ、努力を続けるべきだと励ました。

マツェックは2018年にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結ぶことができたが、またしてもシーズン開始前に解雇された。

その後は独立リーグであるアメリカン・アソシエーションのテキサス・エアホッグスと契約を結んだ。2018年シーズンも引き続き苦しんだが、それでも向上の道が開けてきた。2019年はアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだが、5月に解雇された。6月9日にはエアホッグスに戻った。

デンバー・ポスト紙によると、エアホッグスのビリー・マーチン・ジュニア球団社長はマツェックに腕の角度を高くするようにアドバイスした。

マツェックはそのアドバイスに従うと、リラックスして投球できるようになったと言った。

「小さな変化だったけど、コントロールもスピードも、それですべてが良くなった。それからは投げまくったね。あれでイップスから抜け出せたのだと思う」とデンバー・ポスト紙に言った。

ブレーブスは8月15日にマツェックの契約を買い取り、まず2Aのミシシッピ・ブレーブスに送り、その後3Aのグウィネット・ストライパーズに昇格させた。そしてブレーブスはマツェックを2020年の開幕ベンチ入り選手に入れた。

 

ブレーブスのリリーフ・エース

メジャー復帰を果たしたマツェックは周囲に衝撃を与えた。

2020年の成績は29回を投げ、防御率2.79、FIP1.92。対戦した打者の35.5%から三振を奪った。もっとも重要なことは、8.3%にしか四死球を与えなかったことだ。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で短縮されたシーズンで得た自信を、マツェックは2021年シーズンにより大きく開花させた。63回を投げ、防御率2.57、FIP3.20。ストライク率は29.2%に留まり、四死球率は14%でやや高いが、致命的と言うほどでもなかった。

野球データ解析サイト『Fangraphs』 によれば、2021年シーズンでブレーブスのリリーフ投手陣のなかでマツェックよりWAR数値が高かったのは同じ左腕のA.J.ミンターのみである。マツェックの勝利確率は1.92で、これはチーム1の数値だった。

ナショナル・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第6試合の後で、シリーズ最優秀選手賞(MVP)を受賞したエディー・ロザリオはMLBネットワークのハイジ・ワトニー記者に通訳を通してこう言った。「僕らがここにいるのはマツェックのおかげだよ。いつも大事な場面でブルペンから現れて、僕らを助けてくれたからね」

このポストシーズンここまで、マツェックは10回1/3を投げて、防御率は1.74。17個の三振を奪い、4個の四死球を与え、2失点となっている。

31歳になるマツェックはこのポストシーズンで複数回を投げたのは第6試合が初めてだった。しかし2回とも無失点で切り抜け、ブレーブスがワールドシリーズに進出するための重要な役目を担った。

スニッカー監督は2020年の春季キャンプでマツェックが打者をきりきり舞いさせているところを見た時、名前すら覚えていなかったと言った。今では誰もがマツェックの名前を忘れることはない。

「名前は何だっけ? こんな選手がうちにいたか? そんな感じだった。これは手放してはいけない選手だってね。マツェックがここまでのキャリアで通り抜けてきたことをとても尊敬している。何回もキャリアが終わる危機に陥ったし、そのどれからも抜け出すことはけっして容易なことではなかったはずだ。信じられないほどの忍耐力だと驚くしかない」とスニッカー監督は語った。

(翻訳:角谷剛)

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Edward Sutelan

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Edward Sutelan joined The Sporting News in 2021 after covering high school sports for PennLive. Edward graduated from The Ohio State University in 2019, where he gained experience covering the baseball, football and basketball teams. Edward also spent time working for The Columbus Dispatch and Cape Cod Times.