ディナード・スパンは初めてデビルレイズのユニフォームを見た時、あまりいい印象を持たなかった。
デビルレイズがメジャーリーグに誕生したのは、タンパ生まれの彼が14歳くらいの時だった。デビルレイズのホーム用ユニフォームは、前面に緑、黄色、紫のスペクトルで彩られたチーム名がオニイトマキエイの尾の上に乗っていて、背面には紫で書かれた名前と背番号という、まさに1990年代のスタイルを反映していた。
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10代の頃、デビルレイズの試合を見に行っていたスパンは-彼はビジターのケン・グリフィー・ジュニアに畏怖の念を抱いたことを覚えている-当初からこのチームのファッションセンスに疑問を持っていた。
「初めて見た時は、“なんだあれ?”って感じだったよ」とスパンは20年前のことをスポーティングニュースに語った。
34歳となった今、奇しくもスパンは、タンパベイの初戦から20周年となる3月31日にそのユニフォームを着ることになった。何年も前に、チーム名から「デビル(=悪魔)」を削除し、「レイズ(=太陽光線)」を残したレイズは今シーズン、結成20年を祝う企画を予定している。つまり、彼らはあと何回か懐かしのユニフォームを披露することになるのだ。
スパンも今では、そのユニフォームを喜んで受け入れている。
「あの日は僕にとってまさしく時間が巻き戻った気分だった」と彼は3月31日の試合を振り返った。「レイズの試合を見に行ったことを思い出して自分の年齢を感じたよ。そして、このユニフォームのことも思い出した。これを復活させたのはクールだよね」。
思い出のユニフォームと同様に、故郷の街に戻ってプレーすることになったスパン。
スパンは昨シーズンオフ、サンフランシスコ・ジャイアンツがエバン・ロンゴリアとのトレードの交換要員に彼を含めた当初、あまり嬉しくなかったという。友人や家族と近くなることで騒々しくなることを心配したのだ。
しかし、彼の母親は違う気持ちだった。
今もタンパベイに住む母親のワンダ・ウィルソンは、アリゾナのスプリングトレーニングを訪れたり、西海岸の試合の時間に起きていられるように昼寝をすることにウンザリしていた。彼女がトレードの知らせを聞いたのは、サンフランシスコのシャツを着た乳児の孫、ディナード・ジュニア・ウィルソンの世話をしている最中だった。息子のディナードが、ニュースを持って部屋に入ってきたのだ。
「母さん、もうジャイアンツのシャツを脱いでもいいんだよ」
「どういう意味?」
「もう僕はジャイアンツの一員ではないんだ」
「だから、どういう意味?」
「僕はレイズの一員になったんだよ」
もちろん、母親は大喜び。ワシントンDCよりも近くなったことが一度もなかった10年のキャリアを経て、ハワード・フランクランドブリッジを渡る道を30分運転すれば、息子の試合が見られるのだ。
それからというもの、スパン自身も新天地のレイズでプレーすることに対して前向きにとらえるようになった。
「トレード移籍が決まり、数週間経ってから母みたいに喜べるようになった」とスパンは語る。「違った視点から考えるようになった。それは、故郷でプレーすることができるということだ。僕には生後6か月の息子がいるから、移籍したら毎日会える。そして、地元社会に貢献できるんだ。そう考えると、前向きに受け止められるようになった」。
そして、母親にもいつでも会うことができる。
「母が僕のプレーをいつでも生で見られるって考えると、ほっとする。ゲームが終わる度にハグとキスができるからね」とスパンは話した。
スパンは、仕事に対する姿勢を教えてくれた母親を心から大切にしているのだ。
(中編へ続く)