米国F1の歴史:インディ500がカレンダー内にあった70年前から新設のマイアミ、ラスベガス復活までの歩み

Sergio Rabinal

米国F1の歴史:インディ500がカレンダー内にあった70年前から新設のマイアミ、ラスベガス復活までの歩み image

La relación entre EE.UU. y la F1 nunca fue fácil.

日本時間10月22日午前4時のFP1で開幕するF1世界選手権アメリカGP(グランプリ)。米国でのF1は、来季の2023年に3大会開催を予定するなど一大ブーム期が訪れているが、70年をかけてようやくたどり着いたのが今の状況だ。米国におけるF1サーキットの歴史と変遷を本誌スペイン語版のセルジオ・ラビナル(Sergio Rabinal)記者が伝える。

70年余かけてたどり着いた米国のF1人気

モータースポーツの歴史上、米国とF1(Formula 1)の関係は、容易く結びついたものではなかった。昨今の米国におけるF1熱の盛り上がりは、楕円形のオーバルコースを好む米国モータースポーツファンと、このカテゴリー(F1など従来型サーキット)におけるヨーロッパ人ドライバーたちの強い存在感が、同国の70年以上のF1史のなかでようやく変化し、うまく交わるようになったことを意味している。

F1と米国は常に複雑な関係を歩んできた。他国のグランプリは定番のサーキットが早くから定着した一方、米国では1950年からF1を開催してきたにもかかわらず、国内各地を点々とすることになった。地球上で最も神話的なトラックであるインディアナポリス・モータースピードウェイに始まり、ワトキンズグレン・インターナショナル、ロングビーチ市街地コース、はたまたラスベガス(シーザースパレス周辺市街地コース)からサーキット・オブ・ジ・アメリカズ(COTA)に到達するまで続いた、長く険しいストーリーがあるのだ。

2022年、米国はF1との関係を新たな段階に進め、マイアミGP(5月6日~8日)では、同地区郊外にあるハードロックスタジアム周辺を特設コースにした、半公道型のマイアミ・インターナショナル・オートドロームが誕生。F1で採用された11番目の米国内サーキットとなった。

米国内のすべてのF1開催サーキット

サーキット 開催数 開催された年 最終優勝者
インディアナポリス・モータースピードウェイ (500マイル) 11 1950 - 1960年 ジム・ラットマン
セブリング・インターナショナル・レースウェイ 1 1959年 ブルース・マクラーレン
リバーサイド・インターナショナル・レールウェイ 1 1960年 スターリング・モス
ワトキンズグレン・サーキット 20 1961 - 1980年 アラン・ジョーンズ
ロングビーチ・サーキット 8 1976 - 1983年 ジョン・ワトソン
ラスベガス(シーザーズパレス周辺)市街地コース 2 1981 - 1982年 ミケーレ・アルボレート
デトロイト市街地コース 6 1983 - 1988年 アイルトン・セナ
ダラス市街地コース 1 1984年 ケケ・ロスバーグ
フェニックス市街地コース 3 1989 - 1991年 アイルトン・セナ
インディアナポリス・MS・グランプリコース 8 2000 - 2007年 ルイス・ハミルトン
サーキット・オブ・ジ・アメリカズ 9 2012年から マックス・フェルスタッペン
マイアミ・インターナショナル・オートドローム 1 2022年から マックス・フェルスタッペン

※アメリカGPだけでなく、アメリカ西GP、アメリカ東GPでの開催も合算

▶F1アメリカGPを観るならDAZNで。スマホやTVでスポーツをいつでも楽しもう

インディ500マイルレースから定番のグレンまで

ascari-indy-500-1952

繰り返すように、米国とF1 の関係は、1950年にこのカテゴリー誕生をもたらすことになる技術規則統一の動きを経て長い道のりを歩んできたが、最初期のF1カレンダーのなかには、インディアナポリス・モータースピードウェイ(インディアナ州インディアナポリス)で行われるインディアナポリス500の存在があった。

ほとんど名目上のカレンダー入りではあったが、アルベルト・アスカリ(1952年予選落ち)、ジュゼッペ・ファリーナ(1956年予選落ち)、ファン・マヌエル・ファンジオ(1958年予選落ち)のような偉大なF1ドライバーを伝説的なオーバルで目撃するという出来事以上に、むしろF1とF1ドライバーにとっては、シングルシーター・カテゴリーにおける最高峰のアメリカ人ドライバーたちとの接触機会としての役割を果たした。

インディ500は1950年代を通してF1チャンピオンシップに組み込まれていたが、F1マシンが進化するにつれて開発の方向性などで違いが生じたため、1959年シーズンではアメリカGP開催地として、ロードトラックタイプへの切り替えが求められていた。シーズン最終戦の代替先に選ばれたのはセブリング・レースウェイ(フロリダ州セブリング)で、翌年にはカリフォルニアのリバーサイド・レースウェイで開催された。

F1がワトキンズグレン・インターナショナル(ニューヨーク州ワトキンズグレン)という伝説的高速サーキットをアメリカGPの新たな定着地として見出したのは1961年のことだった。「ザ・ブート」と呼ばれるエリアが追加される1971年の前年までは、ほぼブレーキを踏まずに駆け巡る、超高速トラックとして知られている。ただ、1973年のフランソワ・セベールと1975年のヘルムート・コイニッグの不幸な死亡事故が発生したのは、現在のレイアウトに近い状態になってからだ。

「ザ・グレン」の愛称で親しまれた同サーキットは、F1世界選手権の開催回数が最も多く(20回)、グラハム・ヒルとジム・クラークが3勝をあげて、最も印象を残したサーキットであり、当時のF1ファンにとって必見の場所になった。

ワトキンズグレン人気によって米国内での F1 への関心が高まり、1976年から1981年にかけ、アメリカ西GPとしてロングビーチ市街地サーキット(カリフォルニア州ロングビーチ)を舞台に、同じ年に2つ(当時旧来のアメリカGPを「アメリカ東GP」としていた)のF1イベントが開催されるまでになった。1977年には、米国人ドライバーのマリオ・アンドレッティによる凱旋優勝など、魔法のような記憶に残る瞬間を生んだ。

華麗なる時代から暗黒の消滅期へ

1980年代、経済的な問題と新しい市場の開拓を目指したF1は、北米内のほかの地域に白羽の矢を立て、ラスベガス(シーザーズパレス周辺)、ダラス、デトロイト、フェニックスの4つの新しい市街地コースを転戦している。これらの土地は、やや人が住みにくい地域にあり、F1ファンも多いとはいえない場所だった。

最初の2つは、ある点では決定的な記憶をF1史に残したが、そのコースが持つネオンの輝きや素晴らしい曲線自体は歴史に残ることはなかった。その決定的な記憶とは、カルロス・ロイテマンにとって、ラスベガスで1981年度のタイトルを獲得するチャンスを失うという屈辱の記憶。そして、ダラスの灼熱の太陽の下、リタイア状態のマシンを押すナイジェル・マンセルがフィニッシュラインまでわずか数ヤードのところで熱中症に倒れた1984年7月の物悲しいシーンだろう。

一方、デトロイトとフェニックスは、先の2つよりも多く開催された。ミシガン州のデトロイト市街地コースは、スピードの変化と狭いカーブを兼ね備えていたため、F1という競技に最適だったが、コース設備が貧弱だったことから1988年にカレンダーから除外された。後年、同じ運命がアリゾナ州のフェニックス市街地コースにも降りかかった。両都市のレースではアイルトン・セナがほとんど優勝を飾っていたが、アメリカGP自体も1991年を最後にカレンダーから消えることになる。現地観客動員の少なさが大きく関係したとされる。

インディアナポリスでの再生と転落 

us-gp-indianapolis-f1-2005
the race

カレンダーにアメリカのサーキットが存在しない状態が8年続いたあと、インディアナポリスのあのサーキットがF1に戻ってきた。しかも、F1向けにオーバルコースではなく、500マイルレースとは反対方向に、半分をオーバル、半分を新設のインフィールドセクションを走る仕様に改修された。2000年以来、生まれ変わったインディアナポリス・モータースピードウェイはこのカテゴリーの多くのファンを集め、何よりも当時好調にあったフェラーリの勝利を目の当たりにする震源地となった。

一方、2002年5月のオーストリアGPで、ルーベンス・バリチェロがフェラーリのチームオーダーのためにミハエル・シューマッハに首位を譲らなければならなかったときのように、忘れ去られるべきいくつかの負の瞬間がここで目撃されてきたため、F1ファンにとっては苦々しい思い出の場所にもなっている。

2004年には、ラルフ・シューマッハが椎骨を複数骨折する重大事故に見舞われ、その翌年には、F1の歴史のなかで最も恥ずべき瞬間として悪名高い事件が起きた。フリー走行時点から大きな事故が発生するなどミシュラン製タイヤの信頼性に疑念を抱いた多くのチームは、ドライバーを危険にさらすことなく競争できるかどうか確信が持てなかった。そのため、ブリヂストンタイヤを履いたわずか6台のマシン(フェラーリ、ヨルダン・トヨタ、ミナルディ・コスワース)しかレースに参加しなかったのだ。 

騒動を招いたミシュランが2005年大会チケット購入者への返金対応を済ませて開催された2006年も13台のリタイアという大荒れの展開となり、若き新星としてF1に現れたルイス・ハミルトンがフェルナンド・アロンソを倒した2007年を最後に、オーバルとF1の関係に終止符が打たれた。

米国F1の新たな本拠地となったオースティンとマイアミ

cota-f1-2021
Red Bull Content Pool

新しい恒久的な米国のサーキットがカレンダーに加わったのは、2012年になってからだ。テキサス州オースティンにあるサーキット・オブ・ジ・アメリカズ(COTA)は、以来、アメリカGPの開催地として定着している。高速カーブ、ストレート、大きなスピードの変化を伴うレイアウトにより 、昨今のレース界のニーズに適応したモダンなサーキットとして認知されている

2012年、2015年、2021年のレースは最もエキサイティングなレースとして記憶されており、COTAは米国内でF1がさらに盛り上がる可能性を実証した。実際、昨年はアメリカGP史上最多の40万人以上が来場した。

そして、2022年、ファンの期待に応え、新たなサーキット(マイアミ・インターナショナル・オートドローム)を手に入れたのがマイアミである。しかし、それで終わりではなく、2023年にはラスベガス(1981-1982年とは違う地区を予定)がカレンダーに復帰する。米国におけるF1は新たな時代を迎えようとしている。

原文:La historia de la Fórmula 1 en Estados Unidos: de la 500 millas de Indianápolis hasta llegar a Miami
翻訳・編集:スポーティングニュース日本版編集部

※本記事はスペイン語版記事を翻訳・編集し、追加情報などを加えた日本版記事となる。

▶F1アメリカGPを観るならDAZNで。スマホやTVでスポーツをいつでも楽しもう

Sergio Rabinal

Sergio Rabinal Photo

Sergio es productor de contenido en las ediciones en español de The Sporting News. Desde 2018 desempeña las funciones de productor senior de contenido NBA. A lo largo de ese tiempo ha cubierto dos All-Stars, Basketball Without Borders y el NBA Paris Game, así como otros eventos. Pesimismo de la inteligencia, optimismo de la voluntad.