5月6日(月・祝)、スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥とルイス・ネリをメインイベントに世界4大タイトルマッチが東京ドームで行われる。
日本ボクシング界の宿願だった3度目の東京ドーム・ボクシング興行を目前にして、今から30数年前、当時社会現象だったマイク・タイソンによる過去2度のドームファイトを振り返る。
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■井上vsネリで約34年ぶりの東京ドーム・ボクシング興行が実現
5月6日、ボクシングの世界スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥(大橋)と元世界2階級制覇王者の挑戦者ルイス・ネリ(メキシコ)が戦う、世界スーパーバンタム級(55.3kg以下)タイトルマッチ12回戦をメインイベントとする世界4大タイトルマッチが行われる。
日本ボクシング史上、最大級の興行が開催されるのは、収容人数55000人を誇る「東京ドーム」だ。プロ野球・読売巨人軍のホームスタジアムであり、国内外の大物ミュージシャンのコンサートライブ主要会場であり、プロレス・格闘技では歴史に残るビッグマッチの数々が行われてきた。
だが、同じ格闘技でもボクシングとなるとわずかな数だけだ。東京ドームでプロボクシングの興行が行われるのは、1990年2月11日以来、約34年ぶり3回目となる。そして過去2回、(かつての言い方をすれば)「メーンエベント」を務めたのはあの『鉄人』(Iron Mike=アイアンマイク)マイク・タイソンだった。
過去2回はどんな興行だったのか。日本経済のバブル最盛期に行われた、1988年3月21日のマイク・タイソン vs トニー・タッブス戦。そして全世界が衝撃を受けた、1990年2月11日のマイク・タイソン vs ジェームス『バスター』ダグラス戦を振り返る(※)。
※:2試合ともに、管轄した日本ボクシングコミッションは当時IBFを公認していなかったため、日本では名目上WBAとWBCの世界戦として扱われた。
■東京Dの事実上の「こけら落とし」を飾った鉄人タイソン
1988年3月、日本初のドーム球場「東京ドーム」が竣工する。プロ野球の巨人対阪神のオープン戦は開催されていたが、公式戦ではまだ未使用。そのピカピカの新スタジアムに登場したのが、当時の世界ヘビー級統一王者、マイク・タイソンだった。
前年8月1日にトニー・タッカーを12ラウンド判定で破って、WBA、WBC、IBFの世界3団体のヘビー級王座を統一したタイソン。当時はまだ主要3団体時代であり、タイソンはアンディスピューテッド王者だった。
今の常識では考えられないくらい、試合間隔が短かったタイソンは、10月16日にタイレル・ビッグスを7ラウンドTKOで破って、統一王座を防衛(WBA防衛3・WBC防衛4・IBF防衛1)した。
年が明けて1988年1月22日には、元王者ラリー・ホームズを4回に右フックでKOし、統一王座を防衛(WBA防衛4・WBC防衛5・IBF防衛2)した。
モハメド・アリ引退後に最強を誇り、17度のWBC王座防衛、3度のIBF王座防衛に成功したホームズが、全く歯が立たずに失神させられたKO劇に、世界のボクシング界は「タイソンはヘビー級史上最強なのではないか」と震撼した。
来日直前の2月には、女優でモデルのロビン・ギヴンズと結婚。公私ともに、人生の絶頂にあったタイソン。東京ドームでの試合は、タッブスには申し訳ないが、メディアも世間も、タイソンの勝利を信じて疑わなかった。
タッブスは、頭を付けてタイソンと打ち合う場面もあった。しかし、2ラウンド中盤に、タイソン得意のボディーからアッパーのコンビネーションなどで、打ち負けて腰砕けとなった。そして残り20秒を切ったところで、タイソンの強烈な左フックを食らうと、タッブスはダンスしているかのようにクルッと回って倒れ、2度と立ち上がることはなかった。
2ラウンド2分52秒、タイソンの圧勝だった。
余談だが、この試合を中継した日本テレビがリングサイドのスペシャルレポーターに起用したのが、薬師丸ひろ子さんだった。当時23歳の薬師丸さんは、すでにアイドル・映画女優として絶大な人気だったが、実はボクシングマニアでもあった。
70〜80年代に活躍した伝説の王者『美しき破壊王』アレクシス・アルゲリョは「私(薬師丸)のお友達。一緒にご飯を食べに行ったりしました」という発言で、芸能界だけでなくボクシングファンも驚かせていた。この試合の前には、タイソン夫人のギブンズ、そしてタイソンの母をアテンドして原宿に買い物に行ったこともあったという。これらのエピソードは近年、NHKの音楽番組でも披露しており、MCの大泉洋さんらをやはり驚かせた。
タイソン vs タッブス興行は、東京ドームの野球以外の最初の利用となった。翌日には英ロックバンド「ローリング・ストーンズ」のボーカルだったミック・ジャガーのソロコンサートも行われている。
動員人数は主催者発表で51000人とされた。
■2度目の東京D興行はタイソンにとって悪夢の大番狂わせに
そして東京ドームでの2回目のボクシング開催、1990年2月11日のマイク・タイソン vs ジェームス『バスター』ダグラス戦は、最強王者が、まさかの陥落となった。今でも、ボクシング史上で「最大のアップセット」と言われている。
2年ぶりにドームで戦う、37戦全勝、33KOの統一王者タイソンに、29歳、無名のダグラスが挑戦する試合。誰もがタイソンの勝利を疑わなかった。
ただ、当時のタイソンは私生活が荒れに荒れていた。喧嘩による右手骨折、自動車事故、離婚。
タイソンのボクシングにも影響は出ていた。「ピーカブー」と呼ばれる、ガードを高く保って、ダッキングとウィービングを連続するローリングから、コンビネーションで強打を打ち込む、タイソンのトレードマークといえるスタイルが影を潜め、大ぶりのパンチが目立っていた。
公開スパーリングでダウンを喫するなど、本調子でないのは明らかだった。試合序盤から、ダグラスのジャブを浴び続け、タイソンは左目が腫れた。しかし8ラウンド、タイソンのアッパーカットがヒットしダグラスがダウンする。
ところが、レフェリーのカウント開始が遅かった。ダグラスはカウント9で立ち上がったが、実際には倒れてから13秒が経過していた。
そしてクライマックスが訪れる。10ラウンド、ダグラスの連打に背中から崩れ落ちるタイソン。10ラウンド1分8秒、KO負け。世界中が信じられないものを見た思いだった。
試合後、タイソン陣営は、8ラウンドにおける「謎のロングカウント」をレフェリーのミスとして提訴したが認められず、3団体はダグラスを新王者として認定した。
この試合のリングサイドには、のちにアメリカ大統領となる、ニューヨークの大富豪、ドナルド・トランプ氏もいたという。
動員人数は主催者発表で51600人。井上尚弥 vs ルイス・ネリは、あえて視界不良の席は販売せず、4万規模の動員を見込むとされている。
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