「あれ以上のナイスガイ、そして優れたピッチャーはいないよ。あの男はとんでもないワークホース(働き者)で、優れた野球選手だった」グレイと同じくオンタリオ出身のコラメコは言った。「もちろん不名誉な形で歴史に名を刻みたくはなかったが、同時に彼のことを心から誇りに思う。ひとつには、彼がカナダ人だから。もうひとつは、彼がいかに優れているかを知っていたから。25奪三振の偉業を達成するまで契約のオファーがなかったのは、ただ不運としか言いようがない」。
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レッズはグレイをシングルAのデイトンに送り、グレイは残りのシーズンで47 1/3回を投げて43奪三振、防御率3.02を記録した。かつてMLBで長年活躍した二塁手であり、当時レッズで選手育成ディレクターを務めていたビル・ドーランと、グレイはこんな会話をした。
「彼はこう言ったんだ。『ヘイ、マン。俺は君の投球を気に入ってる。君は負けん気が強い。そこが良い。君は闘争心がある。君のピッチングスタイルが好きなんだ』」グレイは言った。「彼は僕に、9月の予定はあるかと尋ねた。僕が『ノー、なぜ?』と答えると、彼は僕をインストラクショナル・リーグ(フロリダで行われる若手有望株向けのリーグ)に招待してくれた。興奮したよ」。
「インストラクショナル・リーグはプロスペクト(若手有望株)のためのものだ。だから僕は『やったぜ、僕はそこに行くんだ』という感じで興奮していた。野球のことだけを考えていた。そこで突然、『しまった』と思った。ビリーを探して、リーグが何日に始まるのか尋ねた。彼は9月23日だと言った。僕は『1日か2日遅れる』と言った」
9月23日は、彼とキーリーが結婚式を予定していた日だった。ドーランは理解を示した。グレイたちは9月23日、キーリーの故郷であるインディアナ州ミシャワカで結婚式を挙げた。そして24日にはトラックに乗り込み、25日にフロリダに到着した。二人はタートル・ベイの狭いところで身を寄せ合ってハネムーンを過ごし、グレイは1日に野球と新婚生活を掛け持ちした。
「あれは最高だったよ」彼は言った。
2001年、グレイはハイAクラスのマッドビル・ナインでプレーし、カリフォルニア・リーグで2位の防御率2.42を記録。18先発、11リリーフで141 1/3回を投げて110三振を奪った。
その秋、グレイは国際舞台でデビューを果たした。野球ワールドカップにカナダ代表チームの一員として出場したのだ。
「チームは僕を先発投手の1番手に指名し、台湾で行われた初戦でホセ・コントレラスと対戦した」グレイは言った。「キューバ代表は当時、55連勝中だった。そのチームに、23歳の僕が相対するのを想像して欲しい。何が起こるか見てやろうじゃないか、という感じだったよ」。
何が起こったかというと、グレイはそこで素晴らしい投球を見せた。
キューバは初回、エラー絡みで1点を挙げたが、その後はグレイとコントレラスが互角の投手戦を繰り広げた。純粋にボールの質では、既にキューバのレジェンドで90マイル後半の剛速球を投げていたコントレラスにはおそらく敵わなかったが、効率的なピッチングで互角に渡り合った。
「あれは2001年だったから、キューバ代表にはまだ最高の選手たちが揃っていた」カナダ代表の一員であり、1999年のウェアウルブスでグレイの同僚でもあったジェイミー・ポーグは言った。「ブレットは本当に、本当に素晴らしかった」。
グレイは8回を投げ、被安打は僅か3、8三振を奪った。しかしカナダ代表は0-1で敗戦。キューバはその後、勝ち進んで優勝した。
グレイは2002年、ダブルAのチャタヌーガでリリーフを中心に投げ、防御率2.78を記録。2003年はチャタヌーガで43試合、ハイAクラスのポトマックで2試合を投げて防御率3.56だった。27歳となって2004年のスプリングトレーニングを迎える頃、彼はこのままではいけないとわかっていた。
「僕は過去最高の春を過ごした」グレイは言った。「走者を二塁より先に進めず、スプリングトレーニングを通して完璧だった。調子は最高だった。そして解雇された。たくさんある解雇のひとつに過ぎない。シンシナティでは何もかもが変化していた」
グレイをレッズの組織に連れてきたスカウトのヒューズはカブスに移籍しており、レッズはもうグレイに投資できるだけのお金を持っていなかった。その組み合わせが、残念な結果をもたらした。
「僕の唯一の後悔はね」グレイは言った。「失敗するチャンスを得ることもできなかったこと。ボロボロに打ち込まれるようなレベルのリーグまで到達できなかった」
レッズ傘下での通算356 1/3イニングで、グレイは防御率2.83、四球数に対する三振数の割合は3.28という優れた数字を残した。解雇された後、彼は独立リーグのノーザン・リーグ、シャンバーグにあるチームでプレーした。それは、マッコーリーが監督をしていたチームだった。
グレイは2004年の五輪予選で、カナダ代表が本戦出場を決める手助けをした。2003年にプエルトリコで行われた予選ラウンドで、リリーフで3 1/3回を投げ無失点に抑えた。しかし、カナダ代表がギリシャに向かう1週間前、ヒジを壊してしまった。トミー・ジョン手術が必要となり、五輪出場はならなかった。
グレイは2005年、シャンバーグで復帰し、数試合を投げた。その頃、彼はカナダ代表チームの欠かせない人員となっていた。2005年のワールドカップでは6 1/3回を投げて防御率0.00、2006年の五輪予選では防御率1.38を記録した。カナダ代表は2008年の五輪には出場できなかったが、グレイは台湾で行われた最終予選にも参加した。
「その直前、また肩が壊れたのを感じたんだ」グレイは言った。「僕はもう終わっていた。グレッグ(・ハミルトン、カナダ代表チームのディレクター)に『1試合か2試合は投げれるが、それで終わりだ』と告げた」。
カナダ代表として最後の登板で、グレイは南アフリカを相手に4回無失点と好投した。彼がマウンドを降りるとき、ダグアウトの選手たちは立ち上がって声を上げた。皆、グレイが投げるのはこれが最後だとわかっていた。南アフリカ戦での勝利も含め、カナダは6勝1敗で北京での五輪出場を決めた。グレイは中国には行かなかったが、彼は間違いなくチームの一員だった。
「彼以上にハードワークだった選手とプレーしたことはないと思う。ピッチャーならなおさら」オクラホマ・シティ大学でもグレイと一緒だったジロは言った。「彼は持った才能を最大限に発揮した。本当にハードワーカーだった。彼とバッテリーを組むのは、ビデオゲームでピッチャーを操作するようなものだった。ボールをどうしたいか、どこに投げ込みたいか、自由自在だった」
グレイは今、故郷のオンタリオ州ワイオミングで、キーリー、そして15歳と12歳になる子供たちと暮らしている。1980年に遡るが、グレイの父ブルースはワイオミング・メーター・プルービング・サービスという会社を立ち上げた。6年前、息子のブレットは父から会社を買い取った。その3年後、彼は会社をより大きな会社に売却した。彼は今、その会社で働いている。
そして彼は、今も愛するスポーツに携わっている。
「彼は野球選手としてのキャリアを終えて、自分のコミュニティに還元しているんだ」ベースボール・カナダ(カナダの野球機構)でコーチ評価を担当しているジェフ・フレッシャーは言った。彼はウェアウルブスのシーズンチケット所有者で、グレイの25奪三振も目撃している。「彼はピッチングレッスンを行うのに50ドルも請求しない。彼はただ、助けるためにやっているんだ。ブレットはただ、野球に恩返しをしているんだ。彼は彼の世界で、野球を教え、野球をリスペクトしている。そこにはスコアボードなんてない。しかし、2000人しかいない彼の小さな街の野球チームはトロントに行き、勝ったんだ。最高のコーチがついているからね」。
ベースボールへの情熱は、次世代へと受け継がれていく。
「私は野球を愛している。ブレットもそうだ」ブルース・グレイは言った。「そして彼の息子もまた、新たな歩みを刻むんだ」
ブレット・グレイの息子、ケイデンの野球場でのニックネームは? もちろん「Kマン」だ。もっとも彼の父親は、それが2000年6月3日の夜とは何の関係もないことを誓っているが。
(完)
※明日7月8日、本編のサイドストーリーを掲載予定。
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翻訳:Muneharu Uchino